フランソワ・マリー・シャルル・フーリエ
Francois Marie Charles Fourierシャルル・フーリエの肖像
生誕 (1772-04-07) 1772年4月7日
フランス王国・ブザンソン
死没 (1837-10-10) 1837年10月10日(65歳没)
フランス王国・パリ
時代18世紀の哲学
19世紀の哲学
地域西洋哲学
学派フーリエ主義
空想的社会主義
研究分野文明
形而上学、宇宙論、運命
倫理学、愛、性愛
社会哲学、政治哲学
主な概念物質的運動、有機的運動、動物的運動、社会的運動
Phalanstere
フランソワ・マリー・シャルル・フーリエ(Francois Marie Charles Fourier、1772年4月7日 - 1837年10月10日)は、フランスの哲学者、倫理学者、社会思想家。「空想的社会主義者」を代表する人物の一人。 1772年、フーリエはブザンソンで裕福な商人の家に3人の姉を持つ一人息子として生まれる。彼は幼年時代に商業そのものに対する批判感があったと言われている。しかしながら、彼が9歳の時に父を亡くし、彼は家業を継ぐためにヨーロッパを移り歩く徒弟修業を強いられる。 当時のフランス第二の都市であったリヨンに落ち着くが、1793年のリヨン包囲の混乱に巻き込まれ、投獄されたあげくに相続財産の多くを失うことになる。このときの悲惨な体験が後の思想につながっていると言われ、彼は以来、政治革命に対し根強い不信感を抱くようになる。 その後は雇われ店員や行商人を続けながら、1808年に代表的な著作である『四運動の理論』(Theorie des quatre mouvements et des destinees generales)を執筆・刊行する。この中でフーリエは、宇宙には物質的、有機的、動物的、社会的運動の4つの運動があるとし、彼は社会的運動において物質的世界におけるニュートンの万有引力の法則に匹敵する「情念引力の理論」を発見したと宣言する。 フーリエはこの情念引力論に依拠した1620人から成る農業アソシアシオン(association, 協同体)、すなわちファランジュ
生涯
1822年、弟子のミュイロンに急かされる形であるが、以前に執筆していた『大概論』の一部を『家庭・農業アソシアシオン論』(Traite de l'association domestique-agricole)として上梓する。
1829年、『家庭・農業アソシアシオン論』の要約である『産業的協同社会的新世界』(Le Nouveau monde industriel et societaire)を出版するが、これもまた多くの読者を獲得するに至らなかった(ちなみに、まだ青年であったプルードンがこの書の印刷所で校訂作業に従事していた)。しかしフーリエは落胆せず、毎日正午には帰宅し、自身の思想のファランジュ建設のための資金提供者を待っていたといわれている。
晩年のフーリエはパリで過ごし、ヴィクトル・コンシデラン(英語版)らと集まってエコール・ソシエテール(Ecole societaire)を結成。
上記以外の著作に1967年になって、シモーヌ・ドゥブー(Simone Debout)の発見、刊行により初めて出版された『愛の新世界』があるが、これはフーリエが書きとめた同じノート・草稿を元にしており、そもそも『大概論』という書を目指したものであったが、後世の者によってその草稿の一部がまとめられて発行されたものである。現在、その草稿自体はパリのフランス国立古文書館に所蔵されている。 「社会的、動物的 有機的、物質的という四運動の理論こそ、理性の企てるべき唯一の研究であった[1]」と考え、その立場から、過去の哲学者たちの姿勢を根本的に批判し、自らの哲学を展開する。
思想、哲学