フーゴ・ラッサール
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フーゴ・ラッサール
愛宮真備
Hugo Makibi Enomiya-Lassalle
イエズス会司祭
フーゴ・マキビ・エノミヤ=ラッサール
教会カトリック教会
個人情報
本名フーゴ・マキビ・エノミヤ=ラッサール
別名愛宮真備
出生 (1898-11-11) 1898年11月11日
死去 (1990-07-07) 1990年7月7日(91歳没)
国籍 日本
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フーゴ・マキビ・エノミヤ=ラッサール(Hugo Makibi Enomiya-Lassalle, 1898年11月11日 - 1990年7月7日)は、ドイツ生まれのイエズス会員で、カトリック教会司祭宣教師。日本語表記では姓と名がそれぞれ、フーゴーともラサールとも、あるいはまれにラッサルとも表記される。1948年昭和23年)に日本に帰化しており、日本名は愛宮真備(えのみや まきび)。英語版ウィキペディア “Hugo Enomiya-Lassalle”にある英語表記 Aiun-ken は、ラッサールの禅仏教上での名乗り愛雲軒の音訳。

キリスト教聖職者として初めて、坐禅を宗教生活のなかに実践的に導入した。1945年(昭和20年)8月6日広島市の幟町天主公教会(幟町教会)で原子爆弾の投下に会い直接被爆したことで、犠牲者への慰霊のためだけではなく、世界平和を目指した祈念の場の必要性を痛感し、ヒロシマの地に世界平和記念聖堂を建設することに尽力した。それら広島の文化福祉の発展に広く貢献した功績が認められて、1968年(昭和43年)4月広島市の名誉市民として顕彰されている[1][注 1]

帰化名にもよく現れているように日本文化に対する造詣が深く、特に日本人の霊性への関心から禅宗に深い興味を抱き、自ら参禅しただけでなく他のキリスト教関係者にも積極的に坐禅を勧めた。日本国外ではむしろ、その理論と実践において「カトリック禅」[2]ともいえる新境地を開拓したことで知られる。
生涯
生い立ち

1898年明治31年)11月11日にドイツ帝国ヴェストファーレン地方(現在のノルトライン=ヴェストファーレン州ニーハイムエクステンブロック(Externbrock)で誕生。祖先はおそらくフランスから亡命したユグノーであると考えられている[3]。小学校4年生からギムナジウムに進んだ後、その8年目(Unterprima)に徴兵されて、第一次世界大戦西部戦線に送られた。負傷と関節リウマチのために何度か入院したが、1919年大正8年)に高等上等兵(Obergefreiter)で除隊。2級鉄十字勲章受章[4]
修業時代

1919年(大正8年)4月25日イエズス会に入会。当時ドイツのイエズス会西管区に所属する修錬院は、国境で接するオランダのシェーレンベルフ(オランダ語版)にあり、そこで2年間の修練期を過ごしたのち、オランダの南ホラント州ファルケンブルフ(オランダ語版)の聖イグナチオ大学で学ぶ。またイギリスのストーニーハースト・カレッジ(英語版)やヘイスロップ・カレッジ(英語版)などでも、哲学を3年間、神学を4年間ほど学び、哲学博士号取得。1927年(昭和2年)神学課程の3年目終了時に、ファルケンブルフにて司祭に叙階された[4]

フランスのアミアンで受けた第三修練(英語版)の期間中に神秘思想に興味を抱き、十字架の聖ヨハネアビラの聖テレサの著作を熱心に読み込む。この経験がのちに東洋の神秘主義思想とも言える禅体験と呼応して両者が結びつき、独自の道を切り開いてゆくことになった[4]
ミッション

ローマ法王庁から当時ドイツのイエズス会西管区に与えられたミッションに日本があり、そこでの主な事業内容は上智大学での教育であったため[注 2]、ラッサールは1929年(昭和4年)に上智大学に派遣されることになった。しかしラッサールは当初アフリカハンセン病院への派遣を望んでいたこともあって、大学で学生相手にドイツ語を教えることよりも、市井の人々の間に積極的に飛び込んで社会事業を行なうことを好み[4]関東大震災の被災者が多く住んでいて、1931年(昭和6年)当時東京市最大の困窮地帯であった荒川区三河島に、学生たちと活動するための拠点となる「上智セツルメント」を設立した[5][注 3]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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