フン族
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フン族を描いた19世紀の歴史画(ヨーハン・ネーポムク・ガイガー画)フン帝国は中央アジアステップから現代のドイツ黒海からバルト海にまで広がっていた

フン族(フンぞく、Hun)は、4世紀から6世紀にかけて中央アジアコーカサス東ヨーロッパに住んでいた遊牧民である。ヨーロッパの伝承によれば、彼らはヴォルガ川の東に住んでおり、当時スキタイの一部だった地域で初めて報告された。フン族の到来は、イランの人々アラン人の西方への移住に関連している[1]。370年までにフン族はヴォルガ川に到着し、430年までにヨーロッパに広大で短命の支配権を確立し、ローマ国境の外に住むゴート族や他の多くのゲルマン民族を征服し、他の多くの民族のローマ領土への逃亡を引き起こした。フン族は、特に彼らのアッティラ王の下で、東ローマ帝国に頻繁に破壊的な襲撃を行った。451年、フン族は西ローマ帝国ガリア州に侵攻し、カタラウヌムの戦いでローマ人ゴート族の連合軍と戦い、452年にイタリア半島に侵攻した。453年のアッティラの死後、フン族はローマにとって大きな脅威となることは無くなり、ネダオの戦い(454年)で帝国の領土の大部分を失った。フン族の子孫、または同様の名前を持つ後継者が約4?6世紀に東ヨーロッパ中央アジアの一部を占領したとする記録が、南、東、および西の近隣の住民によってなされている。フン系の名前の変種は、8世紀初頭までコーカサスで記録されている。

18世紀、フランスの学者であるジョセフ・ド・ギーニュは、フン族と、紀元前3世紀に中国の北の隣国だった匈奴族とのつながりを最初に指摘した[2]。ギーニュの時代以来、そのような関係を調査するためにかなりの学術的努力が注がれてきた。この問題には依然として議論の余地がある。イランのフン族やインドにおいてフーナ(H??a)として知られている他の民族との関係も論争になっている。

フン族の文化についてはほとんど知られておらず、フン族と結びついた考古学的な遺物はほとんどない。彼らは青銅の大釜を使用し、頭蓋変形を行ったと信じられている。アッティラの時代のフン族の宗教についての記述はないが、占いなどの慣行が明らかになっており、シャーマンも存在し得たとされている。フン族は独自の言語を持っていることも知られているが、それを証明するのは3つの単語と個人名だけである。経済的には、彼らは遊牧を実践したことが知られている。ローマの世界との接触が拡大するにつれて、彼らの経済は、貢物、襲撃、貿易を通じてますますローマと結びついた。彼らはヨーロッパに入ったときに統一政府を持っていなかったらしく、むしろローマ人との戦争の過程で統一部族としてのリーダーシップを発展させたとされている。フン族は、さまざまな言語を話すさまざまな人々を統治し、その一部は独自の支配者を維持した。彼らの主な軍事技術は騎射であった。

フン族は、西ローマ帝国の崩壊の大きな要因である大移動を刺激した可能性が指摘されている[3]。フン族に関する記憶は、フン族が敵対者の役割を演じるさまざまなキリスト教の聖人の生活や、フン族がゲルマンの主要人物の様々な敵対者または同盟者であったゲルマン英雄伝説でも生き続けた。ハンガリーでは、中世の年代記に基づいて発生した伝説で、ハンガリー人、特にセーケイ人はフン人の子孫とされている。しかし、主流の学術界では、ハンガリー人とフン族の密接な関係を否定している[4]。近代文明は、一般にフン族を極端な残酷さと野蛮さに結びつけている[3]
歴史上の記録フン族の西方への移動の推定図
アッティラ以前詳細は「フン族の起源」を参照

139年ローマの地理学者プトレマイオスはクーノイ族(Χο?νοιまたはΧουνο?)がスニ(Suni)の統治下にあるポントス地方のバスタルン族(英語版)とロクソラン族(英語版)の間に住んでいると述べている。彼は2世紀の初めに列挙したが、これらの民族がフン族か否かは不明である。西ローマ帝国がしばしば「クーノイ」 (Χο?νοι)または「ウーノイ」(Ουννοι)と書いており、東ローマ帝国では名称のはじめにXの喉頭音を一度も用いていないことを考慮すると「クーノイ」 (Χο?νοι) と「ウーノイ」(Ουννοι) の類似は偶然である可能性もある[5]。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}5世紀アルメニアの歴史家モヴセス・ホレナツ(英語版)は「アルメニア史」でサルマタイ族の近くに住むフン族について紹介し、194年から214年の間の何れかに起きたフン族によるバルフ攻略について物語り、この街をギリシャ人が「ウーノク」(Hunuk)と呼ぶ理由を説明している。[要出典]

確実な記録としては、フン族は4世紀に初めてヨーロッパに現れた。彼らは370年頃に黒海北方に到来した。フン族はヴォルガ川を越えてアラン族を攻撃して彼らを服従させた。6世紀の歴史家ヨルダネス[* 1]によるとバランベル(英語版)(ゴート族によって創作された架空の人物ではないかと疑われている[5])に率いられたフン族はグルツンギ(英語版)(東ゴート族)の集落を襲撃した[5]。グルツンギ王エルマナリクは自殺し、甥の息子のヴィティメール(Vithimiris)が後を継いだ。376年にヴィティメールはフン族とアラン族との戦いで戦死した。この結果、東ゴート族の大半がフン族に服従した[5]。ヴィティメールの息子のヴィデリック(Viderichus)はまだ幼なかったため、残った東ゴート族の難民軍の指揮権はアラテウス(英語版)とサフラスク(英語版)に委ねられた。難民はドニエストル川西方のテルヴィンギ(英語版)(西ゴート王国)の領域へ逃げ込み、それからローマ帝国領へ入った。(ゴート族のローマ帝国侵入後については「ゴート戦争 (376年?382年)」も参照)[要出典]フン族の都市包囲戦を騎士道的空想に基づいて描いた14世紀の絵画。注)武器と鎧と都市は時代錯誤である。ハンガリーのピクタム・クロニクル(英語版)。1360年フン族による略奪。ジョルジュ・ロシュグロス画。1910年

逃げ出した東ゴート族の一部に続いてフン族はアタナリック(英語版)の西ゴート族の領土に入った。アタナリックはドニエストル川を越えて遠征軍を派遣したが、フン族はこの小部隊を避けて直接アタナリックを攻めた。ゴート族はカルパティア山脈へ後退した。ゴート族の難民たちはトラキアへそしてローマ駐留軍のいる安全地帯へ向かった。[要出典]

395年、フン族は初めて東ローマ帝国へ大規模な攻撃をかけた[5]。フン族はトラキアを攻撃し、アルメニアを蹂躙してカッパドキアを劫略した。彼らはシリアの一部に侵入してアンティオキアを脅かし、ユーフラテス属州を通って押し寄せた。皇帝テオドシウス1世は軍隊を西方へ派遣しており、そのためフン族は抵抗を受けることなく暴れ回り、398年に宦官エウトロピウスがローマ人とゴート人の軍隊をかき集めて撃退して、ようやく平和を回復することに成功した。[要出典]

一時的に東ローマ帝国から逸れた間、405年ラダガイスス率いる蛮族の集団のイタリア侵攻や406年ヴァンダル族スエビ族そしてアラン族のガリア侵入に証明されるようにフン族ははるか西方に移動したようである[5]


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