フンボルト大学ベルリン
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ベルリン・フンボルト大学Humboldt-Universitat zu Berlin

モットーAlma Universitas Humboldtiana Berolinensis (ラテン語)
種別国立大学
設立年1810年
学長Jan-Hendrik Olbertz
所在地 ドイツ
ベルリン
キャンパス市街地
公式サイト ⇒Humboldt-Universitat zu Berlin
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アレクサンダー・フォン・フンボルトの像 (Alexander-von-Humboldt Denkmal)フンボルト大学・本館 (Hauptgebaude der HU Berlin)フンボルト大学・本館 (同上)フンボルト大学・法学部の建物 (Gebaude der juristischen Fakultat)

ベルリン・フンボルト大学(ベルリン・フンボルトだいがく、Humboldt-Universitat zu Berlin)は、1810年、教育改革者で言語学者のヴィルヘルム・フォン・フンボルトによってフリードリヒ・ヴィルヘルム大学 (Friedrich-Wilhelms-Universitat) として創立されたベルリンで最も古い大学である。東ドイツ支配下でフンボルト大学と改称され、ドイツ再統一後に現称フンボルト大学ベルリン(=通称ベルリン・フンボルト大学)となる。

1945年以前は、「ベルリン大学」として名が通り、欧米諸国や日本の近代大学教育に多大なる影響を与えた。最近ではTimes Higher Education (タイムズ・ハイアー・エデュケーション) の世界大学ランキングにおいて、2016年に49位となり、毎年100位以内にランクインする、ドイツおよびヨーロッパを代表する名門大学の一つである[1]

2005年のドイツ国内におけるエクセレンス・イニシアティブ(Exzellenzinitiative)に指定された11の大学の一つ。

ベルリン・フンボルト大学出身/所属のノーベル賞受賞者は55人にのぼる。ノーベル賞受賞者の大学別ランキングでは、世界で13位、ヨーロッパでは、ケンブリッジ大学オックスフォード大学に続き3位、ドイツ国内においては1位である。過去には、特に相対性理論で有名な理論物理学者アルベルト・アインシュタインも10年以上に渡り同大学教授として働いていた。

以下、本項では「フンボルト大学」と呼称する。
沿革
設立の経緯

18世紀を通してドイツ文化圏において新興勢力として伸張しつつあったプロイセン王国は、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世治下、19世紀に入るや市民革命の拡大を目するナポレオン軍と衝突し、国家存亡の危機に陥った(1806年-1807年)。この危機を打開しようと、シュタインハルデンベルクの政治改革、グナイゼナウらによる軍制改革など近代化に向け諸改革がなされたが、教育の近代化の一環としてフンボルトの主導により、ブランデンブルク地域最初の大学として1810年に創立された。

1812年にプロイセン王国のユダヤ人には市民権が与えられ、一方、イェーナ大学(1558年創立)やギーセン大学(1607年創立)等の学生は、国に対し自由主義的改革やドイツ統一を求めるブルシェンシャフトを結成したが、同大学の学生や教授が参加していたことはうかがえない。

さらにボンには1818年、同じく王の名を冠したライン・フリードリヒ・ヴィルヘルム大学ボンも設置された。
発展

ウィーン大学ハイデルベルク大学など中世来の歴史を持つ大学に伝統では及ぶべくもないが、初代の学長にヨハン・ゴットリープ・フィヒテ、2代目フリードリヒ・カール・フォン・サヴィニー、1830年にはゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルがその後任となるなど、当代随一の学究を招き、復興したプロイセン王国の勢力拡大にあわせるかのように有力な大学となっていった。さらに、プロイセン王国が根幹となりドイツ帝国が成立すると、その首都に位置する大学として政府の強い支援を受けるなどにより更なる発展を遂げ、ドイツ文化圏を代表する大学となった。「1880年に4000であったベルリン大学の学生数は、1908年には8000となった」[2]

フンボルト大学は、国家からの「学問の自由」の標語の下に、研究者と学生が自主的な研究に基づき、真理と知識の獲得を目的として、カントの理論に基づき、法学神学医学といった伝統的な学問領域を軸としつつも、これら3つの学問のみならず、自然科学を含めてすべて学問の理論的な研究を哲学が指導するという教養大学モデルを採用した。フンボルト大学は、研究と教育の一体化を図るとの革命的な発想の転換により各国の大学のモデルとなり、その産業形成を支えた[3]

ヴィルヘルム・フォン・フンボルトの弟であるアレクサンダー・フォン・フンボルトカール・リッターとともに近代地理学の嚆矢となったように、多くの新しい科学的な分野を包含するための開拓がなされている。当時のフンボルト大学を代表する学者としては、化学分野ではアウグスト・ヴィルヘルム・フォン・ホフマン、物理分野では、ヘルマン・フォン・ヘルムホルツ、数学者では、エルンスト・エドゥアルト・クンマーレオポルト・クロネッカーカール・ワイエルシュトラス、医学の分野では、ヨハネス・ペーター・ミュラーアルブレヒト・フォン・グレーフェルドルフ・ウィルヒョーそしてロベルト・コッホといった顔ぶれが挙げられる。

この時期に、フンボルト大学は徐々に他のベルリンの高等教育機関を組み込んで拡大していった。その代表が医学部付属病院のシャリテー(Charite)であろう。シャリテーの前身は、フリードリヒ1世による1717年のペスト防止の検疫所で、兵隊王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世 (プロイセン王)の"Es soll das Haus die Charite(これは、チャリティの家である)"の言葉を伴った下賜により1727年に設立されたものである。それが1829年までにフンボルト大学医学部のキャンパスとなり、1927年には、より近代的な大学病院設備が建設された。

1810年に設立した博物学の収集物は、1889年には別の建物が必要となるほどとなり、独立してドイツ最大の自然史博物館である自然博物館(Museum fur Naturkunde 通称:フンボルト博物館)となった。また、1790年に設立された獣医学校は、1934年に吸収され、獣医学研究施設の基礎となったし、1881年に設立されたベルリン農業高等学校( Landwirtschaftliche Hochschule Berlin)は農学部へと発展していった。

日本からも新興国において範を垂れるべき大学として多くの人材が学び、森?外北里柴三郎高橋順太郎寺田寅彦肥沼信次宮沢俊義といった日本の学術界を担う人材の留学が見られる。


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