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フローレンス・ナイチンゲール
生誕 (1820-05-12) 1820年5月12日
トスカーナ大公国フィレンツェ
死没 (1910-08-13) 1910年8月13日(90歳没)
イギリス・ロンドン
著名な実績近代看護教育の母、看護師の祖とも呼ばれている
医学関連経歴
職業看護婦、統計学者
所属セリミエ・バラック
フローレンス・ナイチンゲール(Florence Nightingale、1820年5月12日 - 1910年8月13日)は、イギリスの看護婦、社会起業家、統計学者、看護教育学者、「近代医療統計学および看護統計学の始祖ならびに近代看護教育の母」。統計学の業績について高く評価され1858年には王立統計学会初の女性会員となった[1]。
クリミア戦争での負傷兵たちへの献身や統計に基づく医療衛生改革[2]により著名で、「ランプの貴婦人(the lady with the lamp)」の別称がある(日刊紙タイムズの1855年2月8日版[3]に掲載された内容から)。「光掲げる貴婦人」「クリミアの天使」とも称される。
国際看護師の日(5月12日)は彼女の誕生日である。
ロンドンの聖トーマス病院に付属してナイチンゲール看護学校を設立、これは世界初の宗教系でない看護学校であり、現在はキングス・カレッジ・ロンドンの一部となっている。
病院建築でも非凡な才能を発揮した。
ギリシア哲学についても造詣が深く、オックスフォード大学のプラトン学者、ベンジャミン・ジョウェット(英語版)とも親しく交流した。 1820年5月12日、裕福なジェントリの家庭である両親の2年間の新婚旅行中に、トスカーナ大公国の首都フィレンツェで生まれ、フローレンス(フィレンツェの英語名)と名づけられる。 幼少期は、贅の限りを尽くした教育(フランス語・ギリシャ語・イタリア語(姉妹とも読み書き会話ができた)、ラテン語(聖書や哲学の勉強の基礎となるものとして学ぶ)などの外国語、ギリシア哲学(プラトン)・数学・天文学・経済学・歴史(イギリス、外国)、美術、音楽、絵画、英語(英文法、作文)、地理、心理学、詩や小説などの文学)が施される。 しかし、慈善訪問の際に接した貧しい農民の悲惨な生活を目の当たりにするうちに、徐々に人々に奉仕する仕事に就きたいと考えるようになる。 1847年、ブレスブリッジ夫妻(Charles Holte Bracebridge, Selina Bracebridge
生涯
生い立ち
青年期
ナイチンゲールは精神を病んだ姉の看護をするという口実で1851年、ドイツの病院付学園施設カイゼルスベルト学園(ドイツ語版)に滞在する。ここでは、看護婦(当時)に対しても教育が行われていた。その後、看護婦を志し、リズ・ハーバートに紹介されたロンドンの病院へ就職する。ただし無給であった。生活費は年間500ポンドかかったが、数少ない理解者の父が出していた。就職に反対する母、姉はナイチンゲールとは険悪となるが、後に理解を示しナイチンゲールの活躍を応援する立場に回ったという。
のちに婦人病院長となったナイチンゲールは、イギリス各地の病院の状況を調べ、専門的教育を施した看護婦の必要性を訴える。当時、看護婦は、病院で病人の世話をする単なる召使として見られ、専門知識の必要がない職業と考えられていた時代であった。
クリミア戦争へ1854年頃の写真ナイチンゲールが考案した「鶏のとさか」と呼ばれる円グラフ[2]。クリミア戦争での負傷兵たちの死亡原因を、予防可能な疾病、負傷、その他に分けて視覚化している。
しかし、1854年にクリミア戦争が勃発すると、転機が訪れた。ロンドンタイムスの特派員ウィリアム・ハワード・ラッセル(英語版)により、クリミア戦争の前線における負傷兵の扱いが後方部隊で如何に悲惨な状況となっているかが伝えられるようになると、一気に世論は沸騰する。ナイチンゲールも自ら看護婦として従軍する決意を固める。
事態を重くみたシドニー・ハーバート戦時大臣は、ナイチンゲールに戦地への従軍を依頼する。10月21日、ナイチンゲールはシスター24名、職業看護婦14名の計38名の女性を率いて後方基地と病院のあるスクタリに向かい、11月に到着した。しかし、兵舎病院は極めて不衛生であり、官僚的な縦割り行政の弊害から必要な物資が供給されていなかった。さらに現地のホール(英語版)軍医長官らは、縦割り行政を楯に看護婦団の従軍を拒否した。ナイチンゲールらは、病院の便所掃除がどの部署の管轄にもなっていないことに目をつけ、まず便所掃除を始めることによって病院内へ割りこんでいった。しかし味方がいないわけではなかった。ヴィクトリア女王はハーバート戦時大臣に対し、ナイチンゲールからの報告を直接自身に届けるよう命じた。ハーバートはすぐにこれを戦地に送り、病院内に貼り出させた。ナイチンゲールと看護婦団、そして傷病兵らは元気付けられた。看護師として戦傷兵を見舞うナイチンゲール(1855年)
こうした経緯を経て、彼女はスクタリ病院の看護婦の総責任者として活躍した。後に判明することであるが、着任後に死亡率は上昇 (42%) したものの、『衛生委員会』の査察で衛生状態の改善により好転した。当時、その働きぶりから「クリミアの天使」とも呼ばれた。看護婦を「白衣の天使」と呼ぶのは、ナイチンゲールに由来する。夜回りを欠かさなかったことから、「ランプの貴婦人(または光を掲げる貴婦人)」とも呼ばれた。ナイチンゲール自身はそういったイメージで見られることを喜んでいなかったようである。本人の言葉としては、「天使とは、美しい花をまき散らす者でなく、苦悩する者のために戦う者である」が知られる[要出典]。
ナイチンゲールの従軍後の1855年、戦時省と陸軍省が合併すると若干事態は好転した。新陸軍省は衛生委員会を組織し、現地へ調査団を派遣した、そして、ナイチンゲールの報告どおり、病院内を衛生的に保つことを命令した。この命令の実施により、2月に約42%まで跳ね上がっていた死亡率は4月に14.5%、5月に5%になったことが後に判明した。兵舎病院での死者は、大多数が傷ではなく、病院内の不衛生(蔓延する感染症)によるものだったと後に推測された。
この間もナイチンゲールは陸軍内の政治的トラブルに巻き込まれる。もっとも大きなものは、ナイチンゲールの辞令の任地に最前線であるクリミア半島が含まれていないことを楯に、ホール軍医長官がその活動を制限したことだった。