フローラ・プリム
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フローラ・プリム
Flora Purim
フローラ・プリム(1981年)
基本情報
生誕 (1942-03-06) 1942年3月6日(82歳)
出身地 ブラジル リオデジャネイロ
ジャンルジャズボサノヴァ
職業歌手、ミュージシャン
担当楽器ボーカル、パーカッション
活動期間1960年代 -
レーベルマイルストーン・レコード、ワーナー、ECMレコードCTIレコード
共同作業者リターン・トゥ・フォーエヴァー
公式サイト ⇒www.florapurim.com

フローラ・プリム[1](Flora Purim、1942年3月6日 - )は、フュージョン・スタイルの作品で主に知られているブラジルジャズ・シンガーである。彼女は、チック・コリアスタンリー・クラークと一緒にリターン・トゥ・フォーエヴァーで彼女の役割を果たした。ディジー・ガレスピーギル・エヴァンスオパスタン・ゲッツジョージ・デュークグレイトフル・デッドのミッキー・ハート、サンタナジャコ・パストリアス、そして夫のアイアート・モレイラを含む、数多くのアーティストとレコーディングおよびパフォーマンスを行っている。

2002年、プリムはブラジルで最高の賞の1つである「2002 Ordem do Rio Branco for Lifetime Achievement」を受賞した。彼女は「ブラジリアン・ジャズの女王」と呼ばれている[2]
略歴

プリムは、クラシック音楽家であるユダヤ人の両親からリオデジャネイロで生まれた。父ナウム・プリムはヴァイオリンを演奏し、母レイチェル・ヴァイスベルクはピアニストであった。

[3][4]父親が家を空けていたとき、母親はジャズを家で流していた[5]

「彼女はジャズの78回転のヴァイナル盤(SPレコード)を家に持ち帰って、父が仕事している間に流してくれました。それがジャズという音楽への出会い方でした……基本的にダイナ・ワシントンビリー・ホリデイ、そしてフランク・シナトラを聴いていました。また、ビル・エヴァンスオスカー・ピーターソンエロル・ガーナーなど、多くのピアノ奏者も母のお気に入りでした」[2]

プリムは、1960年代初頭にブラジルでキャリアを始めた。この期間中、彼女は『フローラ・エ M.P.M.』と題されたアルバムの録音を行い、そこでカルロス・リラホベルト・メネスカルによるボサノヴァのスタンダードを歌った[6]。1960年代後半、プリムはエルメート・パスコアールアイアート・モレイラが率いる「クアルテート・ノーヴォ」のリード・シンガーを務めた[5]

成人に達した後、プリムはジャズと過激なプロテストソングを混ぜ合わせ、当時の抑圧的なブラジル政府に抗議を行った[5]。1964年のブラジルの軍事クーデターによって歌の歌詞の検閲が行われ、彼女は後に彼女の人生におけるこの期間について次のようにコメントした。「ブラジルを離れたいと思っていました。サンフランシスコ川と呼ばれる川があります。その川で歌っていました。それが海に流れ出たとき、それは私をアメリカに連れて行ってくれるだろう、と」[7]

ブラジルを離れる少し前に、プリムとアイアート・モレイラは結婚し、1971年頃に娘のダイアナ・ブッカーが誕生した。ダイアナは1998年にクリシュナ・ブッカーと結婚した。クリシュナはジャズ・ベーシストであるウォルター・ブッカーの息子であり、サックス奏者のウェイン・ショーターの甥であり、ピアニストのハービー・ハンコックが名付け親という人物だった[8]。ダイアナは後に両親との生活を「ジプシーのように世界を旅する道で育てられました」と表現した[8]

1967年にニューヨークに到着し[9]、プリムとモレイラは新しいエレクトリック・ジャズに没頭した。彼らはスタン・ゲッツギル・エヴァンスとヨーロッパをツアーして回った[5]。1972年、スタンリー・クラークジョー・ファレルとともに、最初の2枚のアルバムに参加することとなるチック・コリアフュージョン・バンド、リターン・トゥ・フォーエヴァーのメンバーを務めた。1972年に初リリースとなったセルフタイトル・アルバム『リターン・トゥ・フォーエヴァー』と、続く同年リリースのアルバム『ライト・アズ・ア・フェザー』は、どちらも熱烈なレビューを受けた。1973年、プリムはアメリカでの最初のソロ・アルバム『バタフライ・ドリームス』をリリースした。それは好評となり、すぐに彼女は『ダウン・ビート』誌の読者投票でトップ5・ジャズ歌手の1人に選ばれた。プリムはまた、野外フェスティバルや1970年代までのジャズやクラシックのアルバムで、カルロス・サンタナやミッキー・ハートと協力した[5]。1970年代初頭、プリムはコカイン所持のために逮捕され、一時的に投獄されている[6]

1970年代を通じて、プリムはマイルストーン・レーベルからの一連のアルバムをリリースした。彼女と夫のアイアートはウルグアイのバンド、オパ(ウルグアイでは「こんにちは」を意味する)に関わった。マーティン・ピチンソンがマネージメントしている間、プリムはバンドのセカンド・アルバム『Magic Time』にてボーカルでコラボレーションし、その見返りとして、オパはフローラのアルバム『ナッシング・ウィル・ビー・アズ・イット・ワズ…トゥモロウ』(ワーナー・レコード)の「Corre Nina」で演奏した。地球の反対側であるアジア、とりわけフィリピンにおける彼女の最大のソロ・ヒットは「Angels」である。

1980年代、ディジー・ガレスピーのユナイテッド・ネイション・オーケストラとツアーを行ったプリムは、ガレスピーのグラミー賞を受賞した1990年リリースのアルバム『Live at the Royal Festival Hall』(1989年6月10日、ロンドンにて収録)で最高潮に達した。そして1990年代には、元グレイトフル・デッドのドラマーであるミッキー・ハートのグラミー賞を受賞したアルバム『Planet Drum』で歌った。1990年代後半に、プリムは自分のアルバム『スピード・オブ・ライト』をリリースし、ロンドンのソーホーにあるロニー・スコッツ・ジャズ・クラブにおける1か月公演から、ビリー・コブハム、フレディ・ラヴェル、ジョージ・デューク、デビッド・ツァイハー、ウォルフレド・レイジェス・ジュニア、アルフォンソ・ジョンソンチャンギート、フレディ・サンティアゴ、ジョバンニ・イダルゴの貢献による新しいバンドと共にワールド・ツアーを行った。チル・ファクターとプリムの娘ダイアナからの作曲と演奏の大きな貢献もあった[9]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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