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ギュスターヴ・フローベール
Gustave Flaubert
誕生1821年12月12日
フランス王国・ルーアン
死没 (1880-05-08) 1880年5月8日(58歳没)
フランス共和国・クロワッセ
ギュスターヴ・フローベール(フロベール、Gustave Flaubert ⇒発音例、1821年12月12日 - 1880年5月8日)は、フランスの小説家。
写実主義の確立者、芸術至上主義の確信者。パリ大学法学部に在学中から文学に専心し[1]、「文学の修道士」といわれた。科学的な観察と客観的表現を心がけ、文体の完成に情熱を捧げた。代表作に『ボヴァリー夫人』『感情教育』がある。 ルーアンの外科医の息子として生まれる。当初は法律を学ぶが、のち文学に専念[1]。1857年に4年半の執筆を経て『ボヴァリー夫人』を発表、ロマンティックな想念に囚われた医師の若妻が、姦通の果てに現実に敗れて破滅に至る様を怜悧な文章で描き、文学上の写実主義を確立した。他の作品に『感情教育』『サランボー』『三つの物語』『ブヴァールとペキュシェ』など。 フローベールは作品の中から作者の主観を排除し、客観的で精密な文体を通じて作中の人物に自己を同化させることを信条とした。風紀紊乱の罪が問われた『ボヴァリー夫人』裁判中に語ったといわれる「ボヴァリー夫人は私だ」(Madame Bovary, c’est moi.)という言葉は、彼の文学的信念を端的に表すものとしてよく知られている。 ノルマンディー地方の都市ルーアンにて、外科医アシル=クレオファス・フローベールとアンヌ=ジュスティーヌ・フローベール(旧姓フルーリオ)の間に生まれる。夫妻は6人の子供をもうけており、ギュスターヴは第5子にあたるが、第2子(女)、第3子(男)は生後間もなく、第4子(男)はギュスターヴの生後すぐに死んでおり、ギュスターヴは9歳上の兄(父親と同じ名のアシル。後に父と同様、ルーアン市立病院の外科部長になる)と2歳下の妹を持つ3人兄妹の次男ということになる。父はルーアン市立病院の院長であり、幼少期から死や病を身近に見ながら育った。 9歳の頃すでに物語を書くことを試みており、また両親に連れられて観劇に行くと劇作家を夢見て芝居の脚本を書くなどしていた。ルーアンの祭りでは悪魔と戦う聖アントワーヌ(聖アントニウス)の人形芝居に夢中になり、この主題は長く彼の生涯に付きまとうことになる。1831年、9歳半でルーアンの王立中学に入学。文学と歴史が得意科目で、前年からの友人エルネスト・シュヴァリエの他、アルフレッド・ル・ポワットヴァン(ギ・ド・モーパッサンの叔父)、ルイ・ブイエらと親しくなる。フロベールはヴィクトル・ユーゴー、アレクサンドル・デュマ・ペール、ミュッセ、より後にはヴォルテール、シェイクスピア、ラブレーといった作家を読みふけり、作家を夢見て物語を作ることに熱中した。10代の頃の創作にはロマン主義的な陶酔や大げさな文章が多いが、反面風刺的な小話や好色話といったものも多数手がけている。現存するもので最初の文章は1831年のもので、コルネイユを賛美する短文、続いて便秘の研究と称する文章が残っている。 1836年の夏の休暇の際に一家でトルーヴィル 1838年より高等学校に入学、ユゴー、モンテーニュ、サド、ラブレー、ゲーテ、バイロンらに心酔しつつ『芸術と商業』『マテュラン医師の葬式』『ラシェル嬢』などの物語、また後の『聖アントワーヌの誘惑』を思わせる中世風の史劇『スマール』に力を注ぐ。哲学科に入ったフローベールは当初教授にかわいがられたが、しかしその後強権的な教授に代わるとクラスを挙げて反発、抗議文書を書いて署名を集めるなど嘆願活動を行なった。これにより退学を恐れた父の判断で1839年12月に学校を辞め、フローベールは翌年のバカロレアに独学で臨まなければならなくなった。 バカロレアに合格したフローベールは、父の友人に伴われて南フランスとコルシカ島を旅行した。このときコルシカ島からマルセイユに戻り、フローベールはここで取った宿を経営していた35歳のクレオールの女性を相手に童貞を失った。1841年、パリ大学に入学。父の勧めで法学を学ぶが、自分の性質と合わない学問に非常に苦しんだ。当初は自宅で学習していたが、1842年8月よりパリで住まいを借りここで生活をはじめ、勉強の傍らで、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』やシャトーブリアンの『ルネ』などから着想を得つつマルセイユでの思い出を題材にした作品『十一月』を書き始める。パリでは彫刻家ジェームズ・プラディエ
人物
生涯
少年期
隠棲の始まり
1844年1月、ルーアンに帰郷したフローベールは、一別荘の建設予定地を見に兄とともにドーヴィルへ旅行し、中途で眩暈を起こして意識を失い昏倒した。フローベールはしばらく療養したものの、授業登録のため再びパリに赴くと直後に発作が再発、事態を重く見た父の判断で法学の勉強は諦め、家族の目の届くところで静かに暮らすことを余儀なくされた。父は息子の隠棲場所を作ってやるためルーアン近郊のクロワッセに館を作ってやり、フローベールはここでかえって様々な心配ごとを免れながら、熱望していた執筆生活に専念することができるようになった。
フローベールは平穏な生活を送りながら『感情教育』(初稿)を書き上げるが、父の財産管理のおかげで経済的な不安がなかったこともあり出版は考えなかった。次第に健康状態もよくなり、1845年に妹カロリーヌが結婚すると、両親とともに新婚旅行に同行した。このときジェノヴァのバルビ宮殿でブリューゲルの『聖アントニウスの誘惑』を見、『聖アントワーヌの誘惑』の着想を得て準備を始めた。しかし父がにわかに病気にかかり1846年1月に急死、その1か月後には産褥熱がもとで妹カロリーヌが死去するという不幸に見舞われる。一家の大黒柱を失ったフローベールはカロリーヌの娘(名は同じカロリーヌ)を引き取り、父の遺産からの年金に頼りながら母、姪と3人で、あるときはルーアン、あるときはクロワッセと住処を移すという生活を始めた。
1846年7月、フローベールはカロリーヌの胸像をプラディエに依頼するためパリに出向き、彼のアトリエでルイーズ・コレと出会う。