この記事で示されている出典について、該当する記述が具体的にその文献の何ページあるいはどの章節にあるのか、特定が求められています。ご存知の方は加筆
をお願いします。(2017年6月)フロイド・ウェスターマン
Floyd "Red Crow" Westerman
本名Floyd Westerman
別名義Kanghi Duta
生年月日 (1936-08-17) 1936年8月17日
没年月日 (2007-12-13) 2007年12月13日(71歳没)
出生地 アメリカ合衆国・サウスダコタ州Lake Traverse Indian Reservation
死没地 アメリカ合衆国・カリフォルニア州ロサンゼルスCedars-Sinai Medical Center
職業俳優、artist、ミュージシャン
活動期間1988年 - 2007年
配偶者Rosie Westerman
テンプレートを表示
墓地Saint Matthew's Catholic Cemetery, Veblen, South Dakota, U.S.
政党Independent
子供5
テンプレートを表示
フロイド・レッド・クロウ・ウェスターマン(Floyd Red Crow Westerman)、 (カンギ・ドゥタ(Kanghi Duta)、1936年8月17日 ? 2007年12月13日)は、アメリカインディアンのダコタ・スー族の民族運動家、俳優、声優、音楽家。 1936年8月17日、サウスダコタ州のトラバース湖畔保留地
来歴
10歳のときに、自宅から160q離れたワーペトン寄宿学校に強制入学させられた。この学校には、一歳年下のデニス・バンクス(オジブワ族)もいた。ワーペトン寄宿学校はインディアン寄宿学校であり、これはインディアンの子供から衣食住すべてのインディアン文化を剥ぎとり、強制的に白人化させ、「外身は赤いが中身は白い」という「アップル」に仕立て上げる合衆国の同化政策の道具のひとつだった。フロイドは入学直後にインディアンの伝統的風習である長髪を切られ、スー族の言葉を話すことを禁じられ、心に深い傷を残した。この経験はのちの人生に大きく影響することになる。寄宿学校でフロイドはギター演奏を覚えた。
1954年、18歳でアメリカ海軍に入隊し、2年間の兵役の後、北部州立大学に入学した。卒業後、ミネソタ州ミネアポリス4番街の「インディアン横丁」に住んでいた。ここは保留地から流出したインディアンたちの集まるスラム街だった。差別のためにインディアンは定職を得られず、フロイドも低賃金の日雇い労働で食いつなぐ毎日だった。 1968年、「インディアン横丁」仲間の、デニス・バンクスらミネアポリスのオジブワ族インディアンの若者たちが、インディアンの権利回復要求のための団体「アメリカインディアン運動」(AIM)を旗揚げしたのに伴い、フロイドもそのメンバーとなった。 1970年には、クライド・ベルコート、デニス・バンクス、ラッセル・ミーンズ、ジョン・トルーデルとともに、AIMの中心的人物となった。AIMが全米に名をとどろかせることになった、11月26日の「反感謝祭抗議」では、大勢のメンバーとともにニューイングランド・プリマスで「メイフラワー2世号」を占拠してAIMの旗を揚げ、プリマス・ロックを砂で埋め、「清教徒上陸350周年」の祝賀祭をぶち壊して見せた。以後、AIMが行った数々の抗議運動を共にする。 1974年6月、アメリカ合衆国におけるインディアン民族の権利問題を国際的に訴えるため、AIMがサウスダコタ州「スタンディングロック・インディアン保留地」で「国際インディアン条約会議」(IITC)を結成。フロイドは創立時より晩年まで、IITCの親善大使を務めた。 AIMの活動では、ことに環境問題に熱心に取り組み、インディアン保留地での核物質の採掘による放射能汚染問題を巡って、1992年にオーストリアで開かれた「世界ウラニウム公聴会」に出席、証言を行っている。 フロイドはAIMでの活動の中で、インディアン作家のヴァイン・デロリア・ジュニアと交流を深め、ヴァインの詩に曲を提供し始めた。1969年に、ニューヨークのレコード会社がフロイドと契約、翌年ヴァインの著作『カスターはその罪ゆえに死んだ』を題名にして、初のアルバムがリリースされた。以後、コロラド州を拠点に、インディアン運動を音楽で表現し始め、アルバムの自費出版を続けた。音楽スタイルはカントリー・ウェスタンだった。ジャクソン・ブラウン、ウィリー・ネルソン、ボニー・レイット、ハリー・ベラフォンテ、ジョニ・ミッチェル、クリス・クリストファーソン、バフィー・セント=マリー
AIMメンバーとなる
音楽家となる