フリードリヒ・ルートヴィヒ・ゴットロープ・フレーゲ
Friedrich Ludwig Gottlob Frege1878年のフレーゲ
生誕 (1848-11-08) 1848年11月8日
メクレンブルク=シュヴェリーン大公国、ヴィスマール
死没 (1925-07-26) 1925年7月26日(76歳没)
ドイツ国
メクレンブルク=シュヴェリーン自由州、Bad Kleinen
フリードリヒ・ルートヴィヒ・ゴットロープ・フレーゲ(Friedrich Ludwig Gottlob Frege[2], 1848年11月8日 - 1925年7月26日)は、ドイツの哲学者、論理学者、数学者。現代の数理論理学、分析哲学の祖とされる。
バルト海に面したドイツの港町ヴィスマールに生まれる。母アウグステ・ビアロブロツキーはポーランド系。イェーナ大学で学び、その後ゲッティンゲン大学に移り1873年に博士号を取得。その後イェーナに戻り、1896年から数学教授。1925年死去。 フレーゲは、古代ギリシア(ギリシア哲学)のアリストテレス以来の伝統的論理学の革命を遂行し、数学の哲学である「論理主義」 を提唱した[3]。革命的な『概念記法』(Begriffsschrift) は1879年に出版され、アリストテレス以来2,000年変わらずに続いていた伝統論理学を一掃して論理学の新時代を切り開いた。今日の数学で定着している∀(任意の)や∃(存在する)のような量化はこのフレーゲの業績に基づいている。 フレーゲは命題論理と述語論理の公理化を最初に行った人物であり、特に述語論理はそれ自体がフレーゲの発明である(実際には概念記法は高階論理の体系であり、ラムダ計算の祖ともいえる極めて先駆的なものである)。しかしそのあまりもの先進性、独創性ゆえにフレーゲの同時代にはその意義は十分に理解されなかった。彼の概念が広まったのは、ジュゼッペ・ペアノやバートランド・ラッセルらによるところが大きい。ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインとエトムント・フッサールは、フレーゲの影響を大きく受けた哲学者である。また、ルドルフ・カルナップはフレーゲの授業に出席しており、彼の(カルナップによればシャイな)性格について書き残している。 またフレーゲは言語哲学や分析哲学の基礎を確立した人物の一人としても数えられる。「意義と意味について」における意味(独:Bedeutung, 英:meaning, reference)と意義(独:Sinn, 英:sense)の区別、概念と対象との区別などで知られる。 フレーゲは数学は論理に帰着しうるとする論理主義の最初の主要な論客でもあり、彼の『算術の基本法則
業績
フレーゲの体系に矛盾が生じた原因は、ながらく彼の第5法則に帰されてきた。しかし後にチャールズ・パーソンズ、ジョージ・ブーロス、リチャード・ヘックらによって、第5法則に訴えずとも、いわゆる「ヒュームの原理」から、矛盾を生む自然数論が導出可能であることが示された。これにより、近年ではフレーゲの論理主義を再評価する動きが強まっている。
経歴
1848年 ヴィスマールにて出生。
1854年 ヴィスマールのギムナジウムに進学。
1866年 父カール・アレクサンダーが死去。
1869年 ヴィスマールのギムナジウムを卒業、イェーナ大学に進学。
1871年 イェーナ大学卒業。
1871年頃 ゲッティンゲン大学に移動。
1873年 数学の博士号を取得。
1874年 イェーナ大学に大学教授資格論文を提出し、数学科の私講師に採用される。
1879年 『概念記法』を刊行。
1879年頃 イェーナ大学の員外教授に昇進。
1884年 『算術の基礎』を刊行。
1885年 イェーナ医学・自然科学協会で「算術の形式的理論について」を講演。
1887年 マルガレート・リーゼブルクと結婚。
1891年 イェーナ医学・自然科学協会で「関数と概念」を講演。
1892年 論文「意義と意味について」、「概念と対象について」を発表。
1893年 『算術の基本法則』第1巻を刊行。
1895年 リューベックで第67回ドイツ自然科学者・医学者大会の数学・天文部会で講演し、ダフィット・ヒルベルトと出会う。