フレンチタウンの戦い
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フレンチタウンの戦い
Battle of Frenchtown

レーズン川国立戦場跡公園、2010年7月撮影
戦争:米英戦争
年月日:1813年1月18日 - 23日
場所:ミシガン準州フレンチタウン
結果:イギリス軍・同盟インディアンの勝利
交戦勢力
 アメリカ合衆国 アメリカ軍 グレートブリテン イギリス
インディアン
指導者・指揮官
ジョージ・マディソン
ジェイムズ・ウィンチェスター ヘンリー・プロクター
ラウンドヘッド
ウォークインザウォーター
戦力
約1,000イギリス軍正規兵597
インディアン800
損害
戦死:410
負傷:81
捕虜547(このうち30ないし10名はその後の虐殺で殺された)イギリス軍正規兵戦死:25
負傷161
インディアン戦死:3(18日の戦闘)23日の戦闘での損失は不明
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フレンチタウンの戦い(: Battle of Frenchtown、またはレーズン川の戦い、: Battle of the River Raisin、またはレーズン川の虐殺、: River Raisin Massacre)は、米英戦争の1813年1月18日から23日にかけて起こった一連の戦闘である。アメリカ合衆国ミシガン準州フレンチタウン(現在はミシガン州モンロー市)にあるレーズン川近くで、アメリカ軍イギリス軍および同盟インディアンの間で戦われた。

1813年1月18日、アメリカ軍は、イギリス軍および同盟インディアンが占領していたフレンチタウンから、比較的小さな戦闘でその撤退を強いた。アメリカ軍は前年夏のデトロイト包囲戦によってデトロイト市を失っており、北方に進軍してデトロイト市を奪還するための大きな作戦の一部としてこの戦いが始まった。18日はアメリカ軍が成果を上げたが、イギリス軍および同盟インディアンが再結集し、4日後の22日に急襲をかけて反撃した。この日の戦闘で、アメリカ兵397名が戦死し、数百人が捕虜になった。さらに翌日に起こったインディアンによる虐殺により、捕虜の中の数十人が殺された。この戦闘はミシガン州の領域内で起こった戦闘としては最も損失の大きなものであり、また米英戦争中の単一戦闘としても戦死したアメリカ兵の数が最も多いものとなった[1][2][3]

戦場跡の一部は近年になってレーズン川国立戦場跡公園に指定され、アメリカ合衆国国立公園局の国定戦場跡公園に含まれるのを待っている状態である[4][5]
目次

1 戦闘の名称

2 背景

3 第一次レーズン川の戦い

4 第二次レーズン川の戦い

5 レーズン川の虐殺

6 戦いの後

7 脚注

8 外部リンク

戦闘の名称

「フレンチタウンの戦い」という名称はミシガン準州フレンチタウンの中で起きたので名付けられたが、戦場の大半は現在法人化されたモンロー市の中に入っている。この名前は1月22日に起こった戦闘のみに使われることがあり、1月18日の戦闘は第一次レーズン川の戦いと呼ばれたり、あるいは単に1月22日の大きな戦闘の前哨戦とされることもある[6]。1月18日から22日までの戦闘全体を総称して、戦闘(Battle)を英語では複数形にすることもある。戦闘は1月18日に始まったが、最大のものは22日であり、数日間続いていた可能性もある[7]

レーズン川近くで起こったので「レーズン川の戦い」と呼ばれることも多い。1月18日のものを第一次レーズン川の戦いと呼び、22日のものを第二次レーズン川の戦いと呼び分けることもある[7]。「レーズン川の虐殺」という名前はアメリカ軍が降伏した翌日1月23日に起きたことを指して使われる。この日、イギリス側インディアンが、捕虜として傷が重く歩けないようなケンタッキー州の志願兵数十人を殺した[8]
背景 フレンチタウンとデトロイト砦の位置

1812年8月17日、アメリカ軍北西方面軍を指揮していたウィリアム・ハル准将が、駐屯するデトロイト砦をイギリス軍に包囲された後に、全部隊で降伏した。イギリス軍はこの成功により、多くのインディアンを味方に付けることができた[9]。ハル将軍は後にデトロイト砦における不名誉な行動について軍法会議に掛けられ、死刑を宣告された。しかし、ジェームズ・マディソン大統領が、アメリカ独立戦争におけるハルの功績を認め、刑を減じて軍隊からの解雇に留めた[3]

当時、アメリカ軍がイギリス領アッパー・カナダに侵略するとすれば、デトロイト砦は重要な前線基地だった。それがイギリス軍に占領されたために、ミシガン準州内ではイギリス軍の勢力を増させることになった。デトロイト砦が占領された後、フレンチタウン周辺の民兵隊も降伏し、武装解除された。フレンチタウンはデトロイト砦の南僅か25マイル (40 km) にあり、町の住人は地域を占領しているイギリス軍とインディアンの脅威に怯えた。町民はアメリカ軍が再結集して侵入者をアッパー・カナダまで追い返すよう嘆願を行った[10]

ハルの解職後、ジェイムズ・ウィンチェスター准将が北西方面軍の指揮を任された。ウィンチェスターは北方へ押しだしてデトロイトを回復するよりも、さらに小さな望みしか無く不人気だったので、方面軍指揮官職をウィリアム・ハリソン少将に渡すことになった。ウィンチェスターは北西方面軍の次官になった。指揮官としてのハリソンの最初の作戦は軍を北に動かしてデトロイト砦を奪い返すことだった。このために軍を2つに分け、1つを自ら率い、もう1つをウィンチェスターに預けた[1]。一方デトロイト砦周辺を守るイギリス軍のヘンリー・プロクター准将は地域のイギリス兵を全て集め、さらにショーニー族指導者テクムセの下に同盟インディアン約500名も集めた。テクムセはフレンチタウンの戦いにも居たが、戦闘に参加することは無かった[1][10]
第一次レーズン川の戦い

第一次レーズン川の戦い
First Battle of the River Raisin
米英戦争

1813年1月18日
場所ミシガン準州フレンチタウン
北緯41度54分49秒 西経83度22分42秒 / 北緯41.91361度 西経83.37833度 / 41.91361; -83.37833 (First Battle of the River Raisin)
結果アメリカ軍の戦略的勝利

衝突した勢力
 アメリカ合衆国 アメリカ軍 グレートブリテン イギリス
ポタワトミ族インディアン
指揮官
ウィリアム・ルイスエベネザー・レイノルズ
戦力
ケンタッキー州民兵600
フランス人100ポタワトミ族インディアン200
カナダ人民兵63
被害者数
戦死:13、負傷54戦死:民兵1、インディアン3
ルイス隊が1813年1月18日にこの場所で凍ったレーズン川を渉ったことを示す歴史標識、北緯41度54分33.5秒 西経83度22分42.8秒 / 北緯41.909306度 西経83.378556度 / 41.909306; -83.378556 (First Battle of the River Raisin historic marker)

北西方面軍副指揮官のジェイムズ・ウィンチェスターは、訓練の足りない正規兵と志願兵約1,000名を率いた。その大半はケンタッキー州出身だった。ウィリアム・ハリソン少将はウィンチェスターに、フレンチタウンの南約30マイル (50 km)、モーミー川近く(現在のペリーズバーグ)で、ハリソン隊を何時でも支援できる位置にいるよう命令した。


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