フレデリック・C・シャーマン
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フレデリック・C・シャーマン
Frederick Carl Sherman
フレデリック・C・シャーマン中将
渾名テッド
生誕 (1888-05-27) 1888年5月27日
ミシガン州ポートヒューロン
死没 (1957-07-27) 1957年7月27日(69歳没)
カリフォルニア州サンディエゴ
所属組織 アメリカ海軍
軍歴1910 -1947
最終階級

海軍中将
海軍大将(名誉進級)リスト

指揮:
第5艦隊司令長官
第58任務部隊
第38任務部隊
レキシントン艦長

部隊:

戦闘:
第一次世界大戦
第二次世界大戦
*珊瑚海海戦
*ミッドウェー海戦
*ガダルカナル島の戦い
*ラバウル空襲
*ギルバート・マーシャル諸島の戦い
*フィリピンの戦い
*レイテ沖海戦
*硫黄島の戦い
*沖縄戦

戦功:

賞罰:
海軍十字章(3回)

除隊後:
作家

廟:

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「テッド」・フレデリック・カール・シャーマン (Frederick Carl Sherman, 1888年5月27日 - 1957年7月27日) は、アメリカ海軍軍人、最終階級は中将第二次世界大戦後半の太平洋戦線における高速空母機動部隊の指揮官の一人である。

アメリカ海軍作戦部長などを務めたフォレスト・P・シャーマン大将とは別人。この項ではフォレストの方を「F・P・シャーマン」として表記する。
生涯
誕生からアナポリス卒業まで

「テッド」こと、フレデリック・カール・シャーマンは1888年5月27日、ミシガン州ポートヒューロンで生まれた。シャーマンの祖父、ロレーン・シャーマンはポートヒューロンの「The Daily Times」の編集発行人であった。父親のフレデリック・ワード・シャーマンは同紙を1907年に売却しカリフォルニアに移り住み、1911年にサンタバーバラで「The Daily Independent」を編集、発行した。

シャーマンは1910年に海軍兵学校(アナポリス)を卒業する。シャーマンの世代は卒業年次から「アナポリス1910年組」と呼称され、同期にはマーク・ミッチャーチャールズ・A・パウナルレイモンド・スプルーアンスの参謀となるチャールズ・J・ムーア(カール・ムーア)らがおり[注釈 1]、卒業成績は131名中24位だった[1]。シャーマン以外の卒業成績はパウナル81位、ミッチャー103位でムーアの順位は不明であるが[1]、このうちミッチャーは1904年に一旦アナポリスに入学したものの、素行や成績などの問題で一度退学処分を受け、1906年に再入学してシャーマンらと同じクラスになった[2]
青年期から「レキシントン」艦長まで

卒業後は装甲巡洋艦モンタナ」(USS Montana, ACR-13) を振り出しに、戦艦オハイオ」 (USS Ohio, BB-12) 、装甲巡洋艦「メリーランド」 (USS Maryland, ACR-8) に乗り組み、1917年から参戦した第一次世界大戦にはモニター「シャイアン(英語版)」 (USS Cheyenne, BM-10) 、潜水艦H-2(英語版) (USS H-2, SS-29) およびO-2(英語版) (USS O-2, SS-63) 乗り組みとして参加した。大戦後は戦艦「ミネソタ」 (USS Minnesota, BB-22) 、「ウェストバージニア」 (USS West Virginia, BB-48) 、軽巡洋艦デトロイト」 (USS Detroit, CL-8) に勤務。飛行訓練を受けパイロットとなった後、1937年に部隊指揮官として空母サラトガ」 (USS Saratoga, CV-3) 乗り組みとなる。1938年にはサンディエゴ海軍航空基地で勤務し、大佐に昇進後、1940年には「レキシントン」 (USS Lexington, CV-2) 艦長に着任して太平洋戦争開戦を迎える。

開戦当時、「レキシントン」はミッドウェー島へ飛行機の輸送任務を行っていた、開戦を受けて「レキシントン」以下第12任務部隊は真珠湾に引き返し、臨時編成の艦隊を仕立ててウェーク島の救援に急行するも、12月23日に陥落して救援は成らなかった。1942年1月11日、日本の潜水艦伊号第六潜水艦(伊6)の雷撃により「サラトガ」が損傷したため、「レキシントン」は「サラトガ」に代わってウィルソン・ブラウン中将(アナポリス1902年組)[1]第11任務部隊に移り、マーシャル・ギルバート諸島機動空襲ではウェーク島を攻撃することになっていたが、随伴の給油艦ナチェス(USS Neches, AO?5) が日本潜水艦伊号第七二潜水艦(伊72)の雷撃で失われ、攻撃は中止された[3]。2月から3月にかけては、第11任務部隊はニューギニア方面で戦闘を行い、3月10日には空母「ヨークタウン」 (USS Yorktown, CV-5) を基幹とするフランク・J・フレッチャー少将(アナポリス1906年組)[1]の第17任務部隊(英語版)と合同でラエサラモアに上陸した日本軍を、104機の艦載機による南からのオーエンスタンレー山脈を越えた攻撃で痛めつけた(ラエ・サラモアへの空襲)。その後「レキシントン」を含む第11任務部隊は真珠湾で整備ののち珊瑚海に向かい、ポートモレスビー攻略を狙う日本艦隊との間で珊瑚海海戦を戦う。しかし、「レキシントン」は空母「翔鶴」および「瑞鶴」の艦載機の攻撃で大きな損害を受け、やがて激しい爆発を起こして消火しきれないほど炎上。シャーマンは総員退艦を令し、乗組員を退去させたあと、「レキシントン」は駆逐艦フェルプス(英語版) (USS Phelps, DD-360) の魚雷により処分された。アメリカ軍は、日本軍のポートモレスビー侵攻を最終的に断念させたことで、戦略的勝利を得ることができた。
ソロモン戦線

合衆国艦隊司令長官兼海軍作戦部長アーネスト・キング大将(アナポリス1901年組)[1]は、1930年から1932年まで「レキシントン」の艦長を務めていたこともあってか、「レキシントン」には深い愛着を持っていた[4]


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