フレデリック・ルイス
Frederick Louis
プリンス・オブ・ウェールズ
The Prince of Wales
在位1729年1月8日 - 1751年3月31日
出生1707年2月1日
神聖ローマ帝国
ハノーファー選帝侯領、ハノーファー
死去 (1751-03-31) 1751年3月31日(44歳没)
グレートブリテン王国
イングランド、ロンドン、レスター・ハウス
埋葬1751年4月13日
グレートブリテン王国
イングランド、ロンドン、ウェストミンスター寺院
配偶者オーガスタ・オブ・サクス=ゴータ
子女一覧参照
家名ハノーヴァー家
父親グレートブリテン王兼ブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯ジョージ2世
母親キャロライン・オブ・アーンズバック
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フレデリック・ルイス(英語: Frederick Louis, 1707年2月1日 - 1751年3月31日)は、イギリス・ハノーヴァー朝の王族でイギリス国王兼ブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯ジョージ2世と妃キャロライン・オブ・アーンズバックの長男。ジョージ3世の父。王太子(プリンス・オブ・ウェールズ)に叙されていたが、王位継承を果たさずに薨去した。ドイツ語ではフリードリヒ・ルートヴィヒ(Friedrich Ludwig)。 1707年、ハノーファーでブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒ(後のジョージ1世)の孫フリードリヒ・ルートヴィヒとして生まれた。1714年に祖父がイギリス王位を継承し、新たにイギリス王太子となる父ゲオルク・アウグスト(後のジョージ2世)、母カロリーネ(英語名キャロライン)は共にイギリスに渡ったが、当時7歳だったフリードリヒはハノーファーに残された。1726年に祖父からエディンバラ公を授爵された際も、翌1727年に祖父が亡くなり父がジョージ2世としてイギリス王位を継承した際もハノーファーにとどまっており、1728年に自らイギリスに渡るまで両親に会う事はなかった。祖父が在世中にフリードリヒの渡英を許さなかったからである。 1728年から1751年までダブリン大学学長
経歴
プリンス・オブ・ウェールズに叙された後でさえ「ハノーファーのプリンス・フリードリヒ・ルートヴィヒ」として知られていた。両親と長く離れていたこともあって素行が悪く、渡英後は特に母とは死ぬまで険悪な関係であった。政界でも父であるジョージ2世と対立し、首相ロバート・ウォルポールに反発して1741年の総選挙で足並みを乱し、翌1742年のウォルポール辞任に繋げた。ヘンリー・ペラム政権でも野党と組んで対立したが、1751年、父ジョージ2世に先立って急逝した。長男ジョージ・ウィリアム・フレデリックが新たにプリンス・オブ・ウェールズに叙され、1760年にジョージ3世として王位を継承した。 1737年にロンドンのキュー宮殿の「臨時ロッジ」においてフリーメイソンとなる。彼の加入がきっかけとなり、以降イギリス王族男子はフリーメイソンに加入するのが一般的となり、英国王室とフリーメイソンの一体化が急速に進展する[2][3]。
フリーメイソン