フレデリック・ブリッジ
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

イングランドの写真家、オルガニスト、歌手、合唱指揮者については「フレデリック・アルバート・ブリッジ」をご覧ください。

フランク・ブリッジ」とは異なります。

フレデリック・ブリッジ
Frederick Bridge
生誕1844年12月5日
イングランド オールドベリー(英語版)
死没 (1924-03-18) 1924年3月18日(79歳没)
イングランド ロンドン
ジャンルクラシック
職業オルガニスト作曲家、教育者、著作家
.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ポータル クラシック音楽

サー・ジョン・フレデリック・ブリッジ(Sir John Frederick Bridge CVO 1844年12月5日 - 1924年3月18日)は、イングランドオルガニスト作曲家、教育者、著作家

音楽一家に生まれ、20歳にならずして教会オルガニストに就任、24歳で聖堂オルガニストになるという悲願を果たしマンチェスター大聖堂(英語版)のオルガニストとなった。6年の勤務後、ウェストミンスター寺院のオルガニストとして招かれてキャリアを終えるまでこれを勤め上げた。ウェストミンスター寺院の音楽作りを現代化、改良するために複数の変更を取り入れ、2回の戴冠式を含むいくつかの国家行事において音楽の取りまとめを行った。

教育者、講師としては王立音楽大学、グレシャム大学(英語版)、ロンドン大学で教壇に立った。門下からは作曲家のアーサー・ベンジャミン、ノエル・ゲイ、オルガニストのエドワード・ベアストウ、ハーバート・ブリュワー、指揮者のランドン・ロナルド、そして古楽のパイオニアであったアーノルド・ドルメッチらが巣立っていった。グレシャム大学で行った公開講義では幅広い主題と様々な時代の音楽を網羅し、数多くの聴講者が集まった。

25年間にわたりロイヤル・コーラル・ソサエティの指揮者を務め、同団とともに自身やエルガーヴォーン・ウィリアムズパリーといったイギリスの作曲家の新作を演奏した。
生涯
若年期

ブリッジはイングランド中央部、当時はウスターシャーに属していたオールドベリー(英語版)で、父ジョン・ブリッジ、母レベッカ(旧姓 コックス)の間の長男として生まれた[1]。父は1850年にロチェスター大聖堂(英語版)の代理音楽牧師に任用されていた。幼いブリッジは聖堂合唱隊に「練習生」として参加を許可される。規律に厳しい体制で教育内容は初歩的であったが、この時期の合唱教室の卒業生には将来イングランドの聖堂やウェストミンスター寺院でオルガニストを務めることになる者がいた[2]。ブリッジの弟であったジョゼフもその一人で、最終的にはチェスター大聖堂(英語版)のオルガニストとなる[2]水晶宮、1854年。

1852年には8歳にして初めて大きな国家記念行事に参加し、ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリーの死を報せる聖堂の鐘を鳴らす補助を任された[2]。9歳のブリッジと父はマイケル・コスタが1853年6月の水晶宮のお披露目のために組織した合唱団の団員となった[2]。14歳になったブリッジは聖堂合唱隊を離れ、ロチェスター大聖堂のオルガニストだったジョン・ホプキンスの見習いとなった。まだホプキンスの下で学んでいた1851年にショーン(英語版)の村の教会オルガニストに任用され、翌年にはストルード(英語版)教区教会へと移った[2]。1863年から1867年にかけては王立音楽アカデミーで和声学の教授を務めていたジョン・ゴスに作曲の指導を仰いだ[1]。ブリッジは1897年に次のように述べている。「非常に幸福で成長できるレッスンだった。純心な音楽家である先生から受けた指導の価値は私には高く見積もっても見積もり切れるものではない[2]。」

1865年、ブリッジはウィンザーの聖三位一体教会のオルガニストに任用された。この地で彼はセントジョージ礼拝堂のオルガニストであったジョージ・エルヴィから激励と影響を受け[1]ジョン・ステイナーや若きヒューバート・パリーら多くの友人と巡り合った[3]。ウィンザー勤務時代の1867年に王立オルガニスト大学のフェローとなるための試験に合格し、オックスフォード大学にて音楽学士の学位を取得している[2]
聖堂オルガニスト

4年間をウィンザーで過ごしたのち、マンチェスター大聖堂(英語版)のポスト争いを勝ち抜いたブリッジは、無事に聖堂オルガニストになるという希望を叶えることができた[3]。同地では弟のジョゼフを助手に従え、1869年からの6年間を過ごした[3]。マンチェスター時代の1874年にオックスフォード大学で音楽博士の学位を取得、1872年からはオーウェンズ・カレッジ(英語版)で和声学の教授を務めた[4]

ブリッジのリーダーシップの下で大聖堂の音楽水準は向上し、古びて不満の種であったオルガンが交換されることになった。『マンチェスター・ガーディアン』紙は当時の楽器の状況について「教会信者にとって恥ずべきものであるに留まらず、裕福な教区の聖堂にそれがあるということが特に不愉快である」と表現されるほどであった[5]。教区委員(英語版)であったウィリアム・ホールズワース(英語版)が5,000ポンドを拠出し、ロンドンのヒル・アンド・サンズ製の新しい壮麗な楽器が建造されたのであった[5]
ウェストミンスター寺院ウェストミンスター寺院

1875年、ウェストミンスター寺院のオルガニストで聖歌隊指揮者だったジェームズ・タールが職を退いた。ブリッジはそこへ後任として招聘されることになった。引退に際してタールが職位を保持することを許可されたことにより、1882年にタールが他界するまでは「ウェストミンスター寺院の終身代理オルガニスト」がブリッジの公式身分となったが、彼ははじめから一人でこの任務をこなしていった[2]。『ミュージカル・タイムズ』紙は次のように書いている。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:57 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef