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フレデリック・ショパン
Frederic Chopin
1849年に撮影されたショパン(ダゲレオタイプ)
基本情報
出生名フレデリック・フランソワ・ショパン
(仏:Frederic Francois Chopin)
フリデリク・フランチシェク・ショペン
(波:Fryderyk Franciszek Chopin)
別名ピアノの詩人
生誕1810年3月1日(異説あり)
ワルシャワ公国、ジェラゾヴァ・ヴォラ
死没 (1849-10-17) 1849年10月17日(39歳没)
フランス共和国、パリ
学歴ワルシャワ音楽院
ジャンルロマン派音楽
職業作曲家
ピアニスト
担当楽器ピアノ
活動期間1817年 - 1849年
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フレデリック・フランソワ・ショパン(仏: Frederic Francois Chopin 、ポーランド語: Fryderyk Franciszek Chopin[注釈 1][注釈 2] 、生年未詳(1810年3月1日または2月22日、1809年説もあり[注釈 3]) - 1849年10月17日)は、ポーランド出身の、前期ロマン派音楽を代表する作曲家。当時のヨーロッパにおいてもピアニストとして、また作曲家としても有名だった。その作曲のほとんどをピアノ独奏曲が占め、ピアノの詩人[注釈 4]とも呼ばれるようになった。様々な形式・美しい旋律・半音階的和声法などによってピアノの表現様式を拡大し、ピアノ音楽の新しい地平を切り開いていった。夜想曲やワルツなど、今日でも彼の作曲したピアノ曲はクラシック音楽ファン以外にもよく知られている。これらの情熱的かつダイナミックな曲はクラシックピアノを学ぶ者の憧れであり、大きな目標となっている。そのためピアノの演奏会において取り上げられることが多い作曲家の一人である。また、母国ポーランドへの強い愛国心からフランスの作曲家としての側面が強調されることは少ないが、父の出身地で主要な活躍地だった同国の音楽史に占める重要性も無視できない。
1988年からポーランドで発行されていた5,000ズウォティ紙幣に肖像が使用されていた。また、2010年にもショパンの肖像を使用した20ズウォティの記念紙幣が発行されている。2001年、ポーランド最大の空港「オケンチェ空港(Port lotniczy Warszawa-Ok?cie)」が「ワルシャワ・ショパン空港」に改名された。
略歴
1810年 - 0歳:ワルシャワ公国中央のジェラゾヴァ・ヴォラに生まれる。
1816年 - 6歳:ヴォイチェフ・ジヴヌィの指導を受ける。
1817年 - 7歳:ジヴヌィよりピアノを習う。現存する最初の作品『ポロネーズ ト短調』を作曲・出版。
1818年 - 8歳:ワルシャワではじめて公開演奏。
1823年 - 12歳:ユゼフ・エルスネルより対位法・和声学を学ぶ。
1826年 - 16歳:父親の勧めでワルシャワ音楽院に入学[1]。
1828年 - 18歳:ベルリンに2週間滞在。
1829年 - 19歳:ワルシャワ音楽院を首席で卒業。ウィーンで演奏会を開く。
1830年 - 20歳:ワルシャワを去りウィーンへ向かう。
1831年 - 21歳:ウィーンを去りパリへ向かう。デルフィヌ(デルフィナ)・ポトツカ夫人と再会。
1832年 - 22歳:2月26日、パリでの初の演奏会を開く。
1835年 - 25歳:カールスバートで両親と最後の再会。マリア・ヴォジンスカとも再会。
1836年 - 26歳:マリアに求婚。ジョルジュ・サンドと出会う。
1837年 - 27歳:マリアとの婚約が破棄される。
1838年 - 28歳:サンドとの交際が始まる。マヨルカ島に滞在。
1839年 - 29歳:冬はパリ、夏はノアンのサンドの別荘で暮らす生活が始まる。
1844年 - 34歳:冬、インフルエンザにかかる。
1847年 - 37歳:ジョルジュ・サンドとの別れ。
1848年 - 38歳:2月26日、パリでの最後の演奏会。イギリスへ演奏旅行。
1849年 - 39歳:姉、ルトヴィカと最後の再会。10月17日、永眠。
生涯
幼少期父・ニコラ。1829年。ミエロシェウスキ[注釈 5]作。母・ユスティナ
ショパンの父親はニコラ・ショパンといい、ロレーヌから1787年に16歳でポーランドに移住してきたフランス人だった。1794年のコシチュシュコの蜂起で、彼はワルシャワの市民兵として戦いに加わり、副官へ昇格した。彼のフランスで受けた洗礼名はニコラ(Nicholas)だったが、ポーランドではポーランド風の名前を名乗ることにし、ミコワイ(Miko?aj)とした。元来外国人だった彼だが、時とともに完全にポーランドに馴染んだ。ポーランドの歴史家・公文書保管人のワパチンスキ(?opaci?ski)によれば、彼は「自分のことをポーランド人と考えて疑うことがなかった」という[2]。
フランス語が堪能だったニコラは知られる存在となり、貴族の家庭教師をするようになった[3]。その中にはスカルベク(Skarbeks)がおり、ニコラはその遠い親戚であるユスティナ・クシジャノフスカ(Justyna Krzy?anowska)と結婚した[4]。彼女はシュラフタ(ポーランド貴族)の娘だったが、地位を失いスカルベク家に住み込んで侍女をしていた。二人の結婚式は16世紀のブロフフ[注釈 6]の教区の聖ロフ教会で、1806年6月2日に執り行われた。ユスティナの兄弟には、アメリカの南北戦争で北軍の准将を務めることになるヴォジミエシュ・クシジャノフスキ
(英語版)がいた[5][6]。