フレデリックスバーグの戦い
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フレデリックスバーグの戦い
Battle of Fredericksburg
南北戦争

フレデリックスバーグの戦い

1862年12月11日 - 12月15日[1]
場所バージニア州スポットシルバニア郡およびフレデリックスバーグ
結果南軍の勝利

衝突した勢力
北軍 南軍
指揮官
アンブローズ・バーンサイドロバート・E・リー
戦力
ポトマック軍:114,000北バージニア軍:72,500
被害者数
12,653
(戦死 1,284
負傷 9,600
捕虜または不明 1,769)5,377
(戦死 608
負傷 4,116
捕虜または不明 653)

フレデリックスバーグの戦い(フレデリックスバーグのたたかい、英:Battle of Fredericksburg)は、アメリカ合衆国バージニア州フレデリックスバーグ市の内外で、1862年12月11日から12月15日にかけて、南軍ロバート・E・リー大将の北バージニア軍北軍アンブローズ・バーンサイド少将のポトマック軍との間で戦われ、南北戦争の中では最も一方的な結果になった戦闘である。北軍は12月13日に市の背後にある高台で塹壕に入って防御を固めた南軍に対して無益な正面攻撃を繰り返して恐るべき損失を出し、アメリカ連合国の首都リッチモンドへ向かっていたその方面作戦を早期に切り上げることになった。
背景とバーンサイドの作戦

この戦闘はリーの小規模だがより好戦的な軍隊に対する戦いの中で北軍が主導権を取り戻そうとした結果として生まれた。バーンサイドは11月に、ジョージ・マクレラン少将に代わってポトマック軍指揮官に指名された。マクレランは9月のアンティータムの戦いでリーの侵攻を止めたが、エイブラハム・リンカーン大統領はメリーランド州でリー軍を追撃し撃滅できなかったのはマクレランが決断力を欠いているためであるとし、また大会戦の後で軍隊の編成替えや再装備に時間を過剰に費やしていると考えた。

リンカーンや総司令官ヘンリー・ハレック少将からせかされたバーンサイドは、秋も遅い攻撃を立案し、11月9日にハレックとその作戦について検討した。この作戦は素早い動きと偽装に頼っていた。まずバージニア州ウォーレントン近くに敵にも見える形で軍を集結させ、カルペパー・コートハウス、オレンジ・コートハウスおよびゴードンスビルに動く振りをする。次に軍隊を素早く南東に動かしラッパハノック川を越えてフレデリックスバーグに入る。このときリーがバーンサイドの意図を理解できずにじっと動かずにいることを期待して、北軍は急速にフレデリックスバーグからリッチモンド・フレデリックスバーグ・アンド・ポトマック鉄道に添って南のリッチモンドに向けて進軍する。バーンサイドは、もし彼がウォーレントンから直接に南に動けば、このときウィンチェスターの南、シェナンドー渓谷にいるストーンウォール・ジャクソンの軍団の側面攻撃に曝されることを心配していたので、この作戦を選んだ。バーンサイドはまた、オレンジ・アンド・アレクサンドリア鉄道が不適切な供給線だと考えた。バーンサイドがフレデリックスバーグに近いファルマスに補給基地を集め始めたときに、リンカーンの政府はバーンサイドの作戦の見識について長々と議論を続けていた。リンカーンはバーンサイドの作戦を最終的に承認したが、最速で動かなければならないと警告し、リーがバーンサイドの予測したように動くかについては実際に疑っていた。
戦場への移動

北軍は11月15日に行軍を開始し、戦闘部隊は11月17日にファルマスに到着した。バーンサイドの作戦は直ぐに躓いた。舟橋を前もって送りラッパハノック川を素早く渡れるように命令を出していたが、手配のしくじりから橋は軍隊より前に送られていなかった。エドウィン・V・サムナー少将が到着した時、直ぐに川を渡って町にいる500名ばかりの南軍部隊を蹴散らし、西側の地の利のある高地を占領することを強く推奨した。バーンサイドは増加する秋の雨で川の浅瀬が使えなくなりサムナーが遮断されて打ち破られることを恐れて慌てはじめた。バーンサイドはサムナーにファルマスで待つように命じ、それまでのイニシアチブを失った。

11月21日までにジェイムズ・ロングストリート中将の軍団がフレデリックスバーグ近くに到着し、ジャクソンの軍団も急速で続いた。リーは当初バーンサイドとフレデリックスバーグの北西で戦うことを予測し、ノースアンナ川の背後に後退する必要があると見ていた。しかし、バーンサイド軍が緩り動いているのを見ると、全軍にフレデリックスバーグに向かうよう命じた。11月25日に最初の舟橋がファルマスに到着したが、ポトマック軍が抵抗もなしに川を渡るには遅すぎた。しかしリー軍はその半数しか到着しておらず、また塹壕に入ってもいないので、素早く行動するならバーンサイドにはジャクソンが到着する前にロングストリート軍を攻撃して打ち破る機会がまだあった。舟橋が揃ったのは月末であり、この時にはジャクソン軍が到着しロングストリート軍は強い防御陣を構えていた。

バーンサイドは元々、フレデリックスバーグの東、10マイル (16 km)下流で川を渡る考えだったが、ジュバル・アーリー准将の師団がそこに到着して遮った。このために直接フレデリックスバーグに渡ることを決断した。12月9日、ハレックに宛てて、「私は川の他の場所よりも我々の前面で直ちに渡河すれば、敵の意表に出ることができると考える。...敵の大部隊は今ポートロイヤルに結集していて、その残りがフレデリックスバーグに居ると確信し、これを倒せると期待する。」と書いた。バーンサイドは自軍の勢力的な優勢さに加え、有効な攻撃を受けないことが判っている点でも有利だった。ラッパハノック川の対岸ではスタッフォード高地と呼ばれる尾根に220門の大砲が据えられ、リー軍が大規模な反撃を仕掛けることを不可能にしていたからである。

北軍が渡河を試みる2日前でも敵司令官の作戦がよくわかっていなかったにもかかわらずリーは自軍の勝利を強く信じていた。左翼であるロングストリート配下の約2万名の兵士を市の直ぐ西、メアリーズハイツと呼ばれる尾根の頂上にある石壁の背後に置いた。市の南部、下流で渡河されることも恐れ、残りの部隊をジャクソン軍の南に配置した。その地域は丘が入り組んでおり、もう一つの優れた防御陣地になっていた。

12月11日朝、北軍の工兵技師達は全部で6個の舟橋を、2個は町中心の直ぐ北に、3番目は町の南端に、残り3つは南に近くラッパハノック川とディープランの合流点近くに組み立てた。工兵たちは特にウィリアム・バークスデイル准将のミシシッピ旅団に属する狙撃兵の銃火により大きな痛手を受けた。最終的にバーンサイドの部下が説得してその夜にボートで上陸部隊を送り込み、小さな橋頭堡を確保して狙撃兵を追い出した。南軍は北軍の援護砲撃があったために活発には上陸に抵抗しないことを選んだが、南北戦争でも最初の市街戦が起こり、建物は歩兵と対岸からの砲撃で取り払われた。北軍の大砲は5,000発以上の砲弾を町とその西の尾根に撃ち込んだ。橋が完成し、バーンサイド軍が市内を激しく蹂躙したので、リーはそれを古代ヴァンダル族の略奪行為になぞらえて怒った。この破壊行為は、その兵士の多くがバージニア生まれのリー軍兵士も怒らせた。12月11日と12日の流れの中で、バーンサイドの部隊は市の外郭に布陣しリー軍を攻撃する準備を整えた。
戦闘戦闘の概観、1862年, 12月13日サムナーの突撃、午後1時フッカーの突撃、午後3時半

戦端は12月13日の午前8時半に市の南で開かれ、ウィリアム・B・フランクリン少将が左翼大師団から2個師団を以前は見えていなかったジャクソン防御陣右翼の隙間に送り込んだ。午前10時までに厚い霧が立ち込め始め、当初はゆっくりした動きが加速された。ジョージ・ミード少将の師団が主攻撃隊を形成し、アブナー・ダブルデイジョン・ギボン各准将の師団が支援した。この攻撃はジョン・ペラム少佐が指揮するバージニア騎馬砲兵隊によって立ち往生し、ペラムの2門の大砲(12ポンド真鍮ナポレオンと腔線式ブレイクリー)と北軍の砲兵大隊とが約1時間砲撃戦を続けた。リー将軍はこの戦闘を観察して、24歳のペルハムについて、「こんなに若い者にこれほどの勇気を見るとは素晴らしい」とコメントした。最後はミード隊が牽引役となり、マクシー・グレッグ准将の旅団に駆け込みこれを蹴散らした。グレッグは撃たれて致命傷となり、2日後に死んだ。

ミード隊の右翼では、ギボン隊がウィリアム・ドーシー・ペンダーとエドワード・L・トーマス各准将の旅団に攻撃を掛けかなり進展があったが、ミード隊とギボン隊が分離された。午後1時半までに激しい南軍の反撃でこれら2隊は押し返された。霧が深い状態だったので、北軍の砲兵隊はうまく支援できなかった。北軍部隊は撃退されて南軍の歩兵隊に追跡され、川で動けなくなる心配が出てきた。ここでダニエル・シックルズ准将とデイビッド・B・バーニー准将の師団が北軍の戦線を補強しに入り、ジャクソン軍の反撃が行き詰まりになった。戦闘の焦点は北のメアリーズハイツに移った。

フレデリックスバーグの西への最初の攻撃は午前11時に始まり、ウィリアム・H・フレンチ准将の師団がプランク道路に沿って移動し険しい堤のる排水路と広く開けた400ヤード (360 m)の平地に直面したが、その向こう窪んだ道路と石壁の背後には南軍の歩兵と砲兵の部隊が待ち構えていた。少し前にロングストリートは、砲術士官エドワード・ポーター・アレクサンダーから「我々が戦端を開いたらニワトリ(臆病者)1匹もあの平野では生きていけない」という言葉で安心させられていた。


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