フレッド・アステア
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Fred Astaire
フレッド・アステア

本名Frederick Austerlitz
生年月日 (1899-05-10) 1899年5月10日
没年月日 (1987-06-22) 1987年6月22日(88歳没)
出生地 アメリカ合衆国 ネブラスカ州オマハ
死没地 アメリカ合衆国 カリフォルニア州ロサンゼルス
職業俳優歌手ダンサー
ジャンル映画舞台ラジオ、TVショー
主な作品
トップ・ハット』(1935年)
有頂天時代』(1936年)
イースター・パレード』(1948年)
バンド・ワゴン』(1953年)
タワーリング・インフェルノ』(1974年)

 受賞
アカデミー賞
名誉賞
1949年
AFI賞
生涯功労賞
1981年
英国アカデミー賞
助演男優賞
1975年タワーリング・インフェルノ
エミー賞
主演男優賞(ミニシリーズ/テレビ映画)
1959年『An Evening with Fred Astaire』
1978年『絆 / 死を見つめて』
パフォーマンス賞(音楽/バラエティー番組部門)
1961年『Astaire Time』
グラミー賞
生涯功労賞
1989年
ゴールデングローブ賞
男優賞(ミュージカル・コメディ部門)
1950年『土曜は貴方に
助演男優賞
1974年『タワーリング・インフェルノ』
セシル・B・デミル賞
1961年
その他の賞

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フレッド・アステア(Fred Astaire、1899年5月10日 - 1987年6月22日)は、アメリカ合衆国ネブラスカ州オマハ生まれの俳優ダンサー歌手。舞台から映画界へ転じ、1930年代から1950年代にかけてハリウッドミュージカル映画全盛期を担った。
プロフィール
生い立ち姉のアデールとともに(1906年)姉のアデールと共演した『バンド・ワゴン』(1921年)ジンジャー・ロジャースと共演した『艦隊を追って』(1936年)ポーレット・ゴダードと共演した『セカンド・コーラス』(1940年)シド・チャリシーと共演した『バンド・ワゴン』(1953年)ロバート・ワグナーと共演した『スパイのライセンス』(1969年)

本名フレデリック・オースターリッツ(Frederick Austerlitz)としてオマハに生まれた。母ジョハナ・"アン"(旧姓ガイラス)はルター派プロテスタントで、東プロイセンアルザスからのドイツ系移民2世(ドイツ系アメリカ人)。セールスマンであった父フレデリック・"フリッツ"(旧姓名はフリードリヒ・エマヌエル・アウスターリッツ Friedrich Emanuel Austerlitz)は、カトリックに改宗したドイツ系ユダヤ人を両親としてオーストリアリンツに生まれた移民1世である。つまり、フレッドはドイツ系とユダヤ系の混血である。

4歳からダンス・スクールに学んだアステアは、2歳上の姉のアデールとコンビで全米のヴォードヴィル劇場を巡演し、人気を得る。一時期を除き、アデールとのコンビはのちのミュージカル映画全盛期のリハーサルダンサーまで続いた。
ダンサー

17歳でブロードウェイにダンサーとして進出を果たし、20歳で名声を確立。1921年には、22歳で姉・アデールと舞台『バンド・ワゴン』を大成功させた。しかし、1931年にアデールは結婚を機に芸能界から引退しイギリスの貴族社会に入ったため、弟のアステアは新たな活路を模索することになる。
映画界へのメジャー・デビュー

映画俳優への転身を決意し、ハリウッドでカメラ・テストを受けたが、当初の評価はハンサムとは言えない顔やルックスの悪さのせいで散々であった。それでもステージで培われた実力でスクリーンへの道を拓き、1933年メトロ・ゴールドウィン・メイヤー映画『ダンシング・レディ』へのゲスト出演でスクリーンデビューする。

続いて当時の大手映画会社の1つであったが経営難にあったRKOと契約しジンジャー・ロジャースとコンビを結成、1933年以降、主演映画作品において華麗なダンスを披露した。アステアとロジャースは1939年までRKOで数々のドル箱ヒット作を生み出し、RKOは33年に公開された『キング・コング』と二人のダンス・コメディ映画シリーズによって経営を立て直した。

トップハット燕尾服ホワイトタイというエレガントなスタイルで、当時最高の作詞家・作曲家たちの手になるナンバーを歌い踊るアステアは、不況下のアメリカの大衆を熱狂させた。アステアとロジャースは、映画史上最高のダンシング・ペアとされ、二人の一連の主演作は「アステア=ロジャース映画」と呼ばれることもあった。
フリーに転身

だがロジャースが「アステアの添え物」的立場に満足しておらず、演技派としての映画出演を望んだことで、コンビの時代は終わる。実際にロジャースは1939年の主演映画『恋愛手帖』で1940年のアカデミー主演女優賞を獲得している。

このためアステアは、1940年からはフリーで映画出演をする。この頃、タップ・ダンサーのエレノア・パウエルリタ・ヘイワースらとコンビを組み、タップダンスで競演を見せる。

この頃では、特に1940年の『踊るニュウ・ヨーク(Broadway Melody of 1940)』でのタップシーンが秀逸であり、エレノアとの名人どうしの火花散るようなステップが、この映画の底抜けの楽しさを引き出すことに成功しているが、興行的にはロジャースとのコンビには及ばず、ロジャースとの再共演作を制作したこともあった。

1941年からアメリカも参戦した第二次世界大戦中は、アメリカ軍の慰問活動と、出演数は減ったものの映画への出演を中心に活動した。
MGM時代

第二次世界大戦終結後の1946年には、ミュージカル映画でハリウッドを代表するメジャー映画会社であるMGMと契約した(但し専属ではない)。

1948年、若手のダンサー兼振付師として「ポスト・アステア」の地位にあった同じMGM所属のジーン・ケリーが撮影中に怪我を負ったため、代わってアステアが『イースター・パレード』の主役を引き受けた。


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