フレジュス鉄道トンネル
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フレジュス鉄道トンネルのイタリア側坑口

フレジュス鉄道トンネルあるいはフレジュストンネル(イタリア語 : Galleria del Frejus, フランス語 : Tunnel du Frejus)はイタリアフランス国境のアルプス山脈にあるフレジュスを貫く鉄道トンネルであり、トリノからシャンベリを経由しリヨンまたはパリ方面に至る鉄道路線の一部を形成している。イタリア側(南側)の入口はピエモンテ州トリノ県バルドネッキア、フランス側(北側)はローヌ=アルプ地域圏サヴォワ県のモダーヌ(Modane)である。

1871年に開通したアルプスを貫く最初のトンネルである。開通時の全長は12,220m[1](後に延長)あり、これは1882年ゴッタルド鉄道トンネルが開通するまで世界最長であった。また1980年に並行してフレジュス道路トンネルが開通している。

なおフランスではこのトンネルのことを一般にモン・スニトンネル(Tunnel du Mont Cenis)と呼んでいるが、モン・スニ峠はフレジュス峠の北東約18kmにある別の峠である[2]。またフランスでもフレジュス(鉄道)トンネルという表記が用いられることもある[注釈 1]
トンネルフレジュストンネルの位置

トンネルの全長は13,688m[3]であり、複線直流3000Vで電化されている。トンネルのほぼ中央、フランス側から6,907mの地点にイタリアとフランスの国境がある[3]。線路の所属は公式には国境を境に分かれることになっているが、列車の運行はイタリアのトレニタリア(旧イタリア国鉄)が行っており、トンネルのフランス側にあるモダーヌ駅(フランス語版)がトレニタリアとフランス国鉄の境界となっている。電化方式や信号方式はイタリアの基準にしたがったものが使用されている[4]

トンネル内の最高地点はイタリア側に片寄ったところにあり、その標高は1,298mである。イタリア側坑口の標高は1,258m、フランス側は1130mである[4]。トンネル内はフランス側からは22.2パーミル(最大28パーミル[4])、イタリア側からは0.5パーミル(坑口部のみ最大30パーミル[4])の登り勾配となっている[5]
取付路線

イタリア側からトンネルに至る路線の起点はトリノのポルタ・ヌオーヴァ駅(標高235m)である。ここからポー川の支流に沿ってスーザ渓谷を遡り、ブッソレーノ(標高441m)でスーザへの支線を分ける。ここから山岳区間となり、ウルクスを経由しバルドネッキア(1258m)に至る[6]。最急勾配は30.2パーミル、最小曲線半径は345mである[2]。直流3000Vで電化されている[4]

フランス側からの路線の起点はアン県のキュロズ(Culoz, 標高237m)である。ここでマコンおよびリヨンからジュネーヴに至る路線から分岐する。ここからシャンベリを経由し、モンメリアンでグルノーブル経由ヴァランスに至る路線と接続する。そこからイゼール川およびその支流のアルク川を遡り、サン・ジャン・ド・モーリエンヌ(標高536m)から本格的な山岳区間となり、サン・ミシェル・ド・モーリエンヌ(Saint-Michel-de-Maurienne, 標高711m)を経てモダーヌ(標高1057m)に至る[6]。最急勾配は30パーミル以上、最小曲線半径は350mである[2]。モダーヌ駅まで直流1500Vで電化されている。
歴史
建設1859年のモン・スニ峠

1860年まで、アルプス山脈を隔てたピエモンテサヴォイアはともにサルデーニャ王国の領土であった。首都トリノとサヴォイア家発祥の地であるシャンベリを結ぶ交通路は王国にとって重要なものであり、その役割はモン・スニ峠がおもに担っていた。

1850年代になるとピエモンテとサヴォイアを結ぶ鉄道の建設が計画されるようになった。調査の結果、モン・スニ峠よりもその南西のフレジュス峠を通過するルートが好ましいとされた。当時前例のない10kmを越える長大トンネルが必要であったが、サルデーニャ王国はトリノ - ジェノヴァ間の鉄道で3000m以上のトンネルを掘った経験があり、トンネル建設には自信を持っていた[2]

1857年8月15日、サルデーニャ議会はトンネル建設を決議し[1]8月31日には国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世臨席のもと起工式が行われた[2]。サヴォイア出身の技術者ジェルマン・ソメイイェ(Germain Sommeiller)が建設を指揮した。削岩機による工事

建設初期には工事は黒色火薬の他は人力に頼っており、1857年から1860年までの掘進速度は月平均14mという遅々たるものだった[1]。後に圧縮空気を利用した削岩機が投入され、効率は大いに向上した[7]。削岩機の使用は当初から計画されていたものだが、水力を利用したコンプレッサの調達と坑口への設置に手間取り、北側では1861年から、南側では1863年から用いられた[8]。トンネルが貫通したのは1870年12月25日であり[9]、このときのずれは水平方向に40cm(Meillasson[1]によれば36cm)、垂直方向に60cmであり[7]、当時の技術水準から見ると極めて小さなものだった[1]

またイタリア、フランスの双方から峠への取付け路線の建設も進められ、イタリア側は1854年にブッソレーノ経由スーザまで、フランス側は1862年にサン・ミシェルまで開通した。

なお1860年にサヴォイアはフランス領となり、さらに1861年にはサルデーニャ王国はイタリア王国となったが、建設工事はそのまま進められ、工事と開業後の管理はイタリア側が行うものとされた[2]


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