フルリ人(英: Hurrian)またはフリ人は、古代オリエントで活動した人々。紀元前25世紀頃から記録に登場する。彼らは北メソポタミア、及びその東西の地域に居住していた。彼らの故郷は恐らくコーカサス山脈であり、北方から移住してきたと考えられるが、確かではない。現在知られている彼らの根拠地はスバル(Subar
)の地であり、ハブール川流域や後には北メソポタミアと歴史的シリアのいたるところで小国を形成した。フルリ人達が建てた国の中で最も大きく、有力であったのはミタンニ王国であった。紀元前2千年紀のオリエントの殆どの地域にフルリ人が居住していたが、大半の地域でフルリ人は少数派であり、その大半はハブール川流域とアラプハ王国の領域に集中していた。紀元前1千年紀までにウラルトゥ王国を除いて他の集団に同化されたと考えられている。 フルリ人の話した言語は、慣習上フルリ語と呼ばれる膠着語であった。これは近隣のインド・ヨーロッパ語族ともアフロ・アジア語族とも関係が不明であるが、ウラルトゥ語(1000年余り後にアナトリア北東で話される言語)との間には明白な関係が認められ、ことによると遠く現代の北東コーカサス語と関係があるかもしれない。 フルリ人は紀元前2000年頃、フルリ語の表記にアッカド語の楔形文字を採用した。これから現代の学者がフルリ語を読むことが可能となった。現在見つかっているフルリ語の文書は少なく、またフルリ語の文章にはシュメール語の表意文字が多く用いられるためフルリ語での発音が分からないものが多い。このためにフルリ語は未だに分からない語彙が多い。 フルリ語の文書史料としては最長のものとしてアマルナ文書があり、それと同様のものがハットゥシャ(現ボアズキョイ)、ウガリット(現ラス・シャムラ)でも発見された。アマルナ文書は、1983年にハットゥシャでヒッタイト語とフルリ語が併記された文学作品が発見されるまで唯一のフルリ語の長文文書であった。 フルリ人社会は多くの点において起源は謎となっている。紀元前2400年頃までにはフルリ人はコーカサス山脈の麓の丘陵地帯から拡大をしていたかもしれない。次の世紀になるとフルリ人の人名は北メソポタミアと現代のイラクのキルクーク周辺の地域で散見されるようになる。それらはヌジ(Nuzi ハブール川流域は1000年に渡ってフルリ人の中心地域となった。知られている限り最初のフルリ人の王国は紀元前3千年紀の終わりにウルケシュ市の周辺に登場した。アッカド帝国の終焉により、フルリ人がこの地域を支配できるようになった。この地域はそれ以前から長期にわたってテル・ハラフやテル・ブラクを中心に豊かな文化を持っていて、フルリ人はこれらの恩恵を取り入れて高度な都市国家を形成した。 しかし、ウルケシュ王国の周辺には強力な隣国がいくつも存在し、紀元前2千年紀初頭には南のマリに成立したアムル人王国に征服された。当時メソポタミアでは多くのアムル人の王国による覇権争いが生じており、紀元前18世紀頃にはシャムシ・アダド1世によって建設された別のアムル人王国アッシリアがマリを支配下に入れ、ウルケシュからやや離れたハブール川流域のフルリ人居住地帯にシュバト・エンリルと呼ばれる首都を建設した。 フルリ人はこの時代、西へ移動した。紀元前1725年には北シリアのアララハなどでフルリ人の人名が見つかるようになる。ヤムハドのアムル人・フルリ人の王国(Amoritic-Hurrian kingdom of Yamhad)は紀元前1600年頃にはヒッタイトの初期の王ハットゥシリ1世とこの領域を争ったことが記録されている。またフルリ人はキズワトナ ヒッタイトはヤムハドを打ち倒した後南へと拡大を続けた。ヒッタイト王ムルシリ1世はバビロンまで侵攻してバビロンを破壊した。これがヤムハドの打倒と同じように別のフルリ人王朝の興隆を助けることになる。最初の王は紀元前1500年頃ミタンニ王国を創設したキルタと呼ばれる伝説的な王で、ミタンニは徐々にハブール川流域周辺から拡大し紀元前1450年頃 - 紀元前1350年頃にはオリエントで最も強力な国となった。(ミタンニの歴史についてはミタンニの項目を参照)
言語
歴史
ウルケシュの都市国家
ヤムハド王国
ミタンニの出現