フリードリヒ2世_(神聖ローマ皇帝)
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フリードリヒ2世
Friedrich II.
神聖ローマ皇帝
シチリア国王
エルサレム国王
フリードリヒ2世
在位1196年 - 1198年(ローマ王)
1198年 - 1250年シチリア王
1212年 - 1250年(ローマ王)
戴冠式1198年5月17日(シチリア王)
1212年12月9日(対立ローマ王)
1215年6月23日(ローマ王)
1220年11月22日(神聖ローマ皇帝)
1229年3月18日(エルサレム王)
別号エルサレム王

出生1194年12月26日
イェージ
死去1250年12月13日
シチリア王国トッレマッジョーレ
埋葬 シチリア王国、パレルモ大聖堂
配偶者コスタンツァ
 ヨランド
 イザベラ
子女後述
家名ホーエンシュタウフェン家
王朝 ホーエンシュタウフェン朝
父親ハインリヒ6世
母親コスタンツァ
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フリードリヒ2世(Friedrich II, 1194年12月26日 - 1250年12月13日)はホーエンシュタウフェン朝第4代ローマ王(ドイツ王、在位:1196年12月- 1198年[注 1]、第2代シチリア国王フェデリーコ1世(Federico I)(在位:1197年 - 1250年)[注 2]、第二次ホーエンシュタウフェン朝初代ローマ王(通算第6代、在位:1212年12月9日 - 1220年)、そしてシュタウフェン朝通して第3代にして最後となる神聖ローマ皇帝(戴冠:1220年11月22日[注 3]。先代皇帝ハインリヒ6世とシチリア女王コスタンツァの子。さらに第6回十字軍エルサレム王として戴冠(1229年3月18日)。歴代皇帝と異なりイタリアを本拠とした進歩的な君主で、イタリアの中央集権化とゲルマニア(ドイツ)の分割統治を推し進めた。しかし安定した政体を次代に残せないまま崩御、イタリア並びにゲルマニアは中央政権を欠いた都市国家群及び領邦国家群と化し、帝位とイタリア王位はハインリヒ7世即位まで60年以上も途絶える。(大空位時代)
概要De arte venandi cum avibusの挿絵に描かれたフリードリヒ2世

西欧の封建社会に君臨した事実上最後の皇帝。学問と芸術を好み、時代に先駆けた近代的君主としての振る舞いから、スイスの歴史家ヤーコプ・ブルクハルトはフリードリヒ2世を「早くから事物を完全に客観的に判断し処理することに慣れていた、玉座に位した最初の近代的人間」と評した[1][2]。中世で最も進歩的な君主と評価され[3]、同時代に書かれた年代記では「世界の驚異」と称賛された[4]。普段の食事は質素であり飲酒も控えていたが、彼が開いた宴会は豪勢なものであり、ルネサンス時代を先取りしたとも思える宮廷生活を送っていた[5]。フリードリヒの容貌について同時代のヨーロッパの人間は皆称賛していた[6]。またその知性はイスラム教国アイユーブ朝の君主アル=カーミルを魅了した[7]

一方、「早く生まれすぎた」彼は教皇庁や北イタリアの都市国家と対立し、ローマ教皇から2回の破門を受けた[4]。治世をイタリア統一のために費やしたが、教皇庁と都市国家の抵抗によって悲願を達することなく没した[4][8]。また、イタリアに重点を置いた彼の施策は帝国に混乱をもたらした[3]大空位時代)。フリードリヒの死後、帝国が再び皇帝を得るのはハインリヒ7世が即位する約60年後のことである。
生涯
誕生フリードリヒ2世の誕生

1194年12月26日にフリードリヒ2世はイタリア中部の町イェージで皇帝ハインリヒ6世シチリア王女コンスタンツェ(イタリア名はコスタンツァ)の間に生まれる。出産の際にイェージの広場には天幕が張られ、その中でコスタンツァは血統の証人となる町の貴婦人たちに見守られながらフリードリヒを産み落とした[9][10][注 4]

生後3か月目にフリードリヒはアッシジで洗礼を受け、ロゲリウス・フリデリクス(フェデリーコ・ルッジェーロ)の洗礼名を与えられる[10]。この名は、父方の祖父フリードリヒ1世と、母方の祖父であるシチリア王国の建国者ルッジェーロ2世の両方の名前にあやかったものである[11]。さらに洗礼名とともにコンスタンティヌスという名前を与えられた伝承も存在するが、真偽は不明である[12]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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