フリードリヒ2世_(プロイセン王)
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フリードリヒ2世
Friedrich II.
プロイセン国王
フリードリヒ2世
在位1740年5月31日 - 1786年8月17日
別号ブランデンブルク選帝侯

出生 (1712-01-24) 1712年1月24日
神聖ローマ帝国
プロイセン王国
ブランデンブルク選帝侯領ベルリン
死去 (1786-08-17) 1786年8月17日(74歳没)
神聖ローマ帝国
プロイセン王国
ブランデンブルク選帝侯領ポツダムサン・スーシ宮殿
配偶者エリーザベト・クリスティーネ
家名ホーエンツォレルン家
父親フリードリヒ・ヴィルヘルム1世
母親ゾフィー・ドロテア
宗教カルヴァン主義
サイン
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フリードリヒ2世(: Friedrich II, 1712年1月24日 - 1786年8月17日)は第3代プロイセン国王

優れた軍事的才能と合理的な国家経営でプロイセンの強大化に努め、啓蒙専制君主の典型とされる。また、フルート演奏をはじめとする芸術的才能の持ち主でもあり、ロココ的な宮廷人らしい万能ぶりを発揮した。フランス文化を知り尽くすなど学問と芸術に明るく、哲学者のヴォルテールと親密に交際し、全30巻にも及ぶ膨大な著作[1]を著し哲人王とも呼ばれ、功績を称えてフリードリヒ大王と尊称されている。哲学者イマヌエル・カントはフリードリヒの統治を「フリードリヒの世紀」と讃えた[2]
生涯
少年時
父との確執

フリードリヒ2世は1712年1月24日、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世と王妃ゾフィー・ドロテアの子として生まれた。父フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は兵隊王とあだ名される無骨者で芸術を解さなかったが、母ゾフィー・ドロテアは後のイギリス国王ハノーファー選帝侯ジョージ1世の娘で洗練された宮廷人だった。そのため教育方針も正反対の2人は対立し、それは王子フリードリヒにも大きな影響を与えた。父王はフリードリヒの教育係に「オペラや喜劇などのくだらぬ愉しみには絶対に近づかせぬこと」と言い渡し一切の芸術に親しむことを禁じた。

その軍人嗜好を表す逸話として、太鼓の逸話がある。太鼓で遊ぶフリードリヒの騒がしさに怒った姉ヴィルヘルミーネが「そんなうるさいものはやめて、お花で遊んだらどうなの」と言うとフリードリヒが「花なんかで遊ぶより、太鼓を習ったほうが役に立つもん」と言ったのを聞いた父王は、さっそく太鼓を持つ王子の肖像画を描かせたという。

しかし本来のフリードリヒは、むしろ母親似で生来芸術家気質であり、特に音楽を好み、クヴァンツにフルートの手ほどきを受けて習熟、演奏会を開くこともあった。父王はそのようなことを耳にすると怒り狂って、杖でフリードリヒを打ちすえたという。暴力、食事を与えない、蔵書を取り上げるなど、虐待に等しい境遇にフリードリヒはひたすら耐えて成長していった。
逃亡事件と結婚親友:カッテ

フリードリヒは従姉のイギリス王女アミーリアとの縁談を機会に、ついに逃亡を図ることになる。近衛騎兵のハンス・ヘルマン・フォン・カッテとカイトの2人の少尉に手引きを頼み、1730年8月5日早朝に、南ドイツにある旅行先の宿舎を抜け出したが、計画はすでに漏れており、王太子フリードリヒはロッホ大佐によってその日のうちに連れ戻された。

この逃亡計画が父王に知られ、フリードリヒはキュストリン要塞に幽閉された。このころ父王は国際的陰謀の渦中にあり、暗殺の恐怖に苛まれていたため、この逃亡計画も自分を陥れる罠だと考えてフリードリヒを処刑しようとまでしたという。手引きをしたカイト少尉はイギリスに逃亡したが、カッテ少尉は捕らえられて、見せしめのためフリードリヒの目の前で処刑された。フリードリヒが「カッテ、私を許してくれ!」と窓から叫ぶとカッテは「私は殿下のために喜んで死にます」と従容として斬首の刑を受けたという。フリードリヒは窓からその光景を見るよう強制されたが、正視できぬまま失神した。カッテの遺書には「私は国王陛下をお怨み申し上げません。殿下は今までどおり父上と母上を敬い、一刻も早く和解なさいますように」と書かれていた。

ハプスブルク家神聖ローマ皇帝カール6世が調停に乗り出して、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世父子の確執の修復をして、フリードリヒは廃嫡を免れた[3]。フリードリヒは数週間後、父王にむけて手紙を書き、恭順の意を表したため、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世はフリードリヒを釈放して、近くの王領地の管理に当たらせることにした。妃:エリーザベト・クリスティーネ
(画)アントワーヌ・ペーヌ

1733年6月12日には父の命令に従って、オーストリアの元帥であったブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公フェルディナント・アルブレヒト2世の娘エリーザベト・クリスティーネと結婚する。ハプスブルク家マリア・テレジアとの婚約の検討もあったが、フリードリヒがカトリックに改宗する見込みがないために、取り止めになった[* 1]

当時17歳のエリーザベト・クリスティーネは容姿の美しい、また善良で信仰心の篤い少女であった。彼女は夫に好かれようとして、様々な教養を身につけるべく努力したが、フリードリヒの気を惹くことはなかった。夫婦としての生活もなく、後に七年戦争が終結した時、数年ぶりに会った彼女に対してフリードリヒが言ったのは「マダムは少しお太りになったようだ」の一言だけだったといわれる。そのため2人の間には子供がなく、フリードリヒ2世の後を継いだのは王弟アウグスト・ヴィルヘルムと妃の妹ルイーゼ・アマーリエの子、つまり王と王妃の双方にとって甥にあたるフリードリヒ・ヴィルヘルムだった。しかし、それでも彼女は夫を尊敬し続け、フリードリヒとの文通は続いていたという。

赴任先のルピーン近郊に造営したラインスベルク宮でフリードリヒは、気の進まない結婚の代償として得た自由を楽しんだ。父王の意に沿って軍務をこなすかたわら、趣味のあう友人たちを集めて余暇にはげむ優雅な時間を過ごし、また著作も試みている。多くの書簡集のほか、フリードリヒの最初の著書として『反マキャヴェリ論』が知られている。反マキャヴェリ論はマキャヴェッリの提示した権謀術数を肯定するルネサンス的な君主像に異を唱え、君主こそ道徳においても国民の模範たるべしと主張する啓蒙主義的な道徳主義の書であった。この本は後に、文通相手だったヴォルテールの手を経てオランダで匿名で出版され、数か国語に翻訳されている。しかし、即位後フリードリヒ2世がオーストリア継承戦争で見せた野心は、この本の主旨と正反対のものであり、ヴォルテールにも非難されることになる。
即位後
啓蒙主義的改革1740年代、甲冑をまとったフリードリヒ

1740年5月31日フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は崩御し、フリードリヒはフリードリヒ2世として即位した。即位後ただちにフリードリヒ2世は啓蒙主義的な改革を活発に始め、拷問の廃止、貧民への種籾貸与、宗教寛容令、オペラ劇場の建設、検閲の廃止などが実行された。フランス語ドイツ語の2種類の新聞が発刊され、先王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世のもとで廃止同然になっていたアカデミーも復興し、オイラーをはじめ著名な学者たちをベルリンに集めたため、ベルリンには自由な空気が満ち「北方のアテネ」と称されるようになった。

自由を実現する一方、フリードリヒ2世は父から受け継いだ8万の常備軍を、周囲の予想に反してさらに増員し、戦争に備えていた。ただし、父の作った巨人連隊は廃止された。
オーストリア継承戦争 (1740年-1748年)ハプスブルク家の相続問題については「マリア・テレジア」を、オーストリア継承戦争全体については「オーストリア継承戦争」を、シュレージエン侵攻の理由については「シュレージエン戦争」を参照
第一次シュレージエン戦争 (1740年-1742年)戦役の詳細については「第一次シュレージエン戦争」を参照

1740年10月20日神聖ローマ皇帝カール6世が急逝した。国事詔書によってハプスブルク家領は娘のマリア・テレジアが相続した。フリードリヒ2世はこれを承認する見返りにボヘミア王冠領(ハプスブルク帝国の構成国)のシュレージエン(現在のポーランド南西部からチェコ北東部)の割譲を求めたが、マリア・テレジアは拒否した。フリードリヒ2世は1740年12月16日宣戦布告することなしにシュレージエンに侵攻した(第一次シュレージエン戦争の開始)。先帝カール6世の遺した国事詔書を反故にしての進軍だった。シュレージエン急襲は成功し、プロイセン軍はわずか戦死22人の損害で占領に成功した[4]。これ以降、かつての婚約者候補だったハプスブルク家新当主マリア・テレジアとフリードリヒ2世は生涯の宿敵となった。翌1741年4月10日モルヴィッツの戦いでプロイセンは圧勝を収め、プロイセンの台頭を各国に印象付けることに成功する。5月にバイエルンフランススペインニンフェンブルク条約でオーストリアを包囲する同盟をむすんだ[5]。フランスはプロイセンとザクセンとも同盟した。ザクセン選帝侯ポーランド王アウグスト3世ボヘミアの継承を主張して侵攻したが撤退し、オーストリアと同盟した。一方、バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトはフランスとむすび上オーストリアとボヘミアへ侵攻し、1741年12月ボヘミア王として戴冠し、翌1742年には弟のケルン大司教クレメンス・アウグスト・フォン・バイエルンによって神聖ローマ皇帝カール7世として戴冠された。しかしハンガリーと組んだマリア・テレジアの反撃によってバイエルンを奪われた。

フリードリヒ2世は1742年5月17日コトゥジッツの戦いハプスブルク帝国に勝利し、1742年7月のベルリン条約でシュレージエンの割譲を認めさせた[6]


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