フリードリヒ1世
Friedrich I.
ブランデンブルク選帝侯
プロイセンの王
在位1701年1月18日 - 1713年2月25日
戴冠式1701年1月18日
別号ブランデンブルク選帝侯
(1688年5月9日 - 1713年2月25日)
プロイセン公
(1688年5月9日 - 1701年1月18日)
出生 (1657-07-11) 1657年7月11日
プロイセン公国、ケーニヒスベルク
死去 (1713-02-25) 1713年2月25日(55歳没)
神聖ローマ帝国
( プロイセン王国)
ブランデンブルク選帝侯領、ベルリン
埋葬 神聖ローマ帝国
( プロイセン王国)
ブランデンブルク選帝侯領、ベルリン大聖堂
配偶者エリーザベト・ヘンリエッテ・フォン・ヘッセン=カッセル
ゾフィー・シャルロッテ・フォン・ハノーファー
ゾフィー・ルイーゼ・フォン・メクレンブルク=グラーボウ
子女ルイーゼ・ドロテア
フリードリヒ・アウグスト
フリードリヒ・ヴィルヘルム
家名ホーエンツォレルン家
父親フリードリヒ・ヴィルヘルム
母親ルイーゼ・ヘンリエッテ
宗教カルヴァン主義
サイン
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フリードリヒ1世(ドイツ語: Friedrich I.、1657年7月11日 - 1713年2月25日)は、初代の「プロイセンの王」。はじめはプロイセン公(在位:1688年5月9日 - 1701年1月17日)、またブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世(在位:1688年5月9日 - 1713年2月25日)。フリードリヒ・ヴィルヘルム2世とスウェーデン王グスタフ3世とスウェーデン王カール13世は曾孫、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世とスウェーデン王グスタフ4世は玄孫、ヴィルヘルム1世は来孫、フリードリヒ3世とロシア皇帝アレクサンドル2世は昆孫、ヴィルヘルム2世とロシア皇帝アレクサンドル3世は仍孫、ロシア皇帝ニコライ2世は雲孫である。
フランス王ルイ14世に憧れるような虚栄心の強い浪費家だった。父フリードリヒ・ヴィルヘルムや孫フリードリヒ2世に比し、凡庸な君主と評される[1]が、妃の影響もあって学芸を振興させ、プロイセンの国王となった。 フリードリヒ1世は1657年7月11日、プロイセン公国のケーニヒスベルクでフリードリヒ・ヴィルヘルム大選帝侯と妃ルイーゼ・ヘンリエッテ(オランダ総督、オラニエ公フレデリック・ヘンドリックの娘)との間に生まれた。オランダ総督兼イングランド王ウィリアム3世は母方の従兄に当たる。 フリードリヒはシュヴェリーン伯(後にヴェストファーレン伯)エーバーハルト・フォン・ダンケルマンに教育を受け、1674年12月7日に兄カール・エミールが早世した後は、選帝侯位の継承者となった。 1679年、ヘッセン=カッセル方伯ヴィルヘルム6世の娘で従妹に当たるエリーザベト・ヘンリエッテと結婚し、翌1680年にルイーゼ・ドロテーアをもうけたが、エリーザベト・ヘンリエッテは3年後の1683年に亡くなった。 1684年にブラウンシュヴァイク=リューネブルク公女ゾフィー・シャルロッテ(ハノーファー選帝侯エルンスト・アウグストの娘)と再婚し、1688年には後のフリードリヒ・ヴィルヘルム1世が生まれている。ゾフィー・シャルロッテはフランス語が巧みな知性あふれる女性で、彼女のサロンには一流の芸術家や学者が集ったためベルリンの知識階級は大いに活発になった。多情だったフリードリヒ1世とも夫婦仲は良く、彼の文教政策は彼女の影響を強く受けている。 1688年に父が死去し、フリードリヒは後を継いで選帝侯となる。この時はまだブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世と呼ばれていた。選帝侯となったフリードリヒ3世は恩師ダンケルマンと、愛妾
生涯
生い立ち
選帝侯
1692年、異母弟のブランデンブルク=シュヴェート辺境伯フィリップ・ヴィルヘルムと協定を結び、フィリップ・ヴィルヘルムの年金保障と引き換えにハルバーシュタットの統治権を放棄させた。