フリードリヒ・ヴィルヘルム
Friedrich Wilhelm
ブランデンブルク選帝侯
プロイセン公
フリードリヒ・ヴィルヘルム
在位1640年12月1日 - 1688年5月9日
出生 (1620-02-16) 1620年2月16日
神聖ローマ帝国
ブランデンブルク選帝侯領、ベルリン近郊、ケルン
フリードリヒ・ヴィルヘルム(Friedrich Wilhelm, 1620年2月16日 - 1688年5月9日)は、ブランデンブルク選帝侯およびプロイセン公(在位:1640年12月1日 - 1688年5月9日)。プロイセン公国をポーランド支配から解放し、フェールベリンの戦いなどに勝利して領内からスウェーデン勢力を駆逐したため、大選帝侯(der grose Kurfurst)と称えられる。 フリードリヒ・ヴィルヘルムは1620年2月16日、ベルリン近郊のケルンでブランデンブルク選帝侯ゲオルク・ヴィルヘルムとその妃であるプファルツ選帝侯フリードリヒ4世の娘エリーザベト・シャルロッテの間に生まれた。1627年、三十年戦争から逃れてキュストリンに移り、1634年から1638年までオランダへ留学していた。 1640年、父の死去にともなってフリードリヒ・ヴィルヘルムは弱冠20歳でブランデンブルク選帝侯となるが、いまだブランデンブルクが不穏な状態にあるためプロイセンに留まった。1642年にグスタフ2世アドルフの娘で16歳の従妹、スウェーデン女王クリスティーナに求婚するが、この縁談は破談となった。彼女がカトリックに同情的であったためと思われる。1643年にブランデンブルクへ戻り、初めてベルリンを訪れ、臣下から忠誠の誓いを受ける。 1646年に母の従妹ルイーゼ・ヘンリエッテ(オランダ総督、オラニエ公フレデリック・ヘンドリックとアマーリエ・フォン・ゾルムス=ブラウンフェルスの娘)と結婚し、クレーフェに移った。1650年に義兄のオランダ総督ウィレム2世が亡くなり妻の甥ウィレム3世(後のイングランド王ウィリアム3世)が幼少のためオランダが無総督時代に移行すると、姑アマーリエとウィレム3世の母メアリー・ヘンリエッタと共にウィレム3世の後見人を務めた[1]。 父の代の1637年にポンメルン公国の統治者が死亡してスウェーデンとブランデンブルクとの争いが発生、フリードリヒ・ヴィルヘルムは継承権を主張したが、1648年のヴェストファーレン条約でスウェーデンが西部(フォアポンメルン)を、ブランデンブルクはあまり価値が無い東部(ヒンターポンメルン)を相続することになった。この時から軍備拡張を政策に掲げ、1653年に地方議会からユンカーの特権保障と引き換えに課税権の承認を受け、常備軍の設置に必要な税制の整備を始めた。クレーフェやプロイセンでも反対を受けつつ課税は成功し、この後の戦いを勝ち抜くための基礎となった。 1655年、プロイセン公国の宗主国をポーランドからスウェーデンへと替えたフリードリヒ・ヴィルヘルムは翌1656年、ワルシャワの戦いでスウェーデンと共に戦ってポーランド=ロシア連合軍を破り、ラビアウ条約でプロイセンの主権を獲得した(大洪水時代)。しかしプロイセンの支配権を安定させるため、選帝侯はその後もしばしば同盟の相手を変えながら、ユトランドやフォアポンメルンを転戦する。 1660年のオリヴァ条約でフリードリヒ・ヴィルヘルムは最終的な支配権を獲得し、ケーニヒスベルクで起こった暴動も鎮圧して住民に忠誠を誓わせた。この時点でプロイセンはポーランドとスウェーデンの宗主下から脱し自立、選帝侯としては神聖ローマ皇帝の臣下であったが、既にブランデンブルク=プロイセンは北東ヨーロッパにおける地位を築いていた。また、直接税と間接税による恒常的な財源確保及び官僚機構の整備による中央集権化も進みブランデンブルクは徐々に発展していった[2]。フリードリヒ・ヴィルヘルム(1688年) 1672年に仏蘭戦争が勃発すると当初はフランス王国と同盟を結んでいた関係で中立だったが、オランダと条約を結びフランスから離反した。しかし1673年にはフランス大元帥テュレンヌに領土を攻め込まれ一旦和睦、翌1674年に再度反フランスに転じてアルザスで帝国軍と合流したが、1675年1月5日にテュレンヌの奇襲を受けて敗走、アルザスから撤退した(テュルクハイムの戦い)。
生涯