フリードリヒ・ラッツェル
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フリードリヒ・ラッツェル
Friedrich Ratzel
フリードリヒ・ラッツェル
生誕1844年8月30日
バーデン大公国カールスルーエ
死没 (1904-08-04) 1904年8月4日(59歳没)
 ドイツ帝国 / バイエルン王国、アーメルラント(英語版)
居住 ドイツ帝国
国籍 ドイツ帝国
研究分野地理学生物学
研究機関ライプツィヒ大学ミュンヘン工科大学
出身校ハイデルベルク大学
主な業績人類地理学・環境決定論
影響を
受けた人物エレン・センプル
プロジェクト:人物伝
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フリードリヒ・ラッツェル(Friedrich Ratzel, 1844年8月30日 - 1904年8月9日)は、ドイツ地理学者生物学者。当時旺盛であった社会的ダーウィニズムの影響の強い思想を特徴とする。政治地理学の祖でもある。環境決定論者として認識されがちであるが、人類学界からは進化主義に対する伝播主義の主唱者として評価されている[1][2]
生涯

カールスルーエで4人兄弟の末子として生まれた。父カール・ラッツェルは、宮廷の近侍であった。ラッツェル家は身分的にも保護され、彼も何の不自由もなく育った。彼は放課後、薬剤師としての訓練を積むようになり、1863年に薬学試験を受けたあと、数年薬剤師の助手として働く。次第に、彼の学問的関心が自然科学文献学研究へと向き始めた。21歳の時までに、地質学動物学ハイデルベルク大学イェーナ大学ベルリン大学で学ぶ[1]1868年にハイデルベルク大学より動物学の博士号を授与された。

卒業後、南フランスへと旅行したが、金銭不足に陥り、それを補うためにケルン新聞(あるいは年報)(de)宛てに『地中海の旅行手記』を投稿した。これは読者から好意的に受け入れられ、彼はケルン新聞の調査報告者として雇われ継続的に旅行報告をしていくことになった。彼はさらにイタリアキューバメキシコハンガリーアメリカ合衆国へと調査旅行を行った。この間普仏戦争に従軍し、負傷している[2]。この後にモーリッツ・ワグナーと出会い、生物の新種は地理的隔離によって生じるという考えに大きな影響を受けた[2]

1871年、ミュンヘン工科大学に入学し、自然科学研究を継続する。ここで彼にとって地理学が、ますます大きな意義を持つようになっていた。1875年にラッツェルの調査旅行は終わり、ミュンヘン工科大学の地理学の私講師としての時代が始まる。その1年後には員外教授に就任[3]。ミュンヘンでの活動中に『一般地理学に関する平易な24回の講義』(1881)、『アメリカ合衆国』(1878-1880, 2巻)を出版。これらの作品は、彼の「人文地理学」の始まりでもあった。

1877年にイギリス旅行で知り合ったマリー・ウィンガーズと結婚。2人の娘に恵まれる。

1886年にライプツィヒ大学に招聘され[1]フェルディナント・フォン・リヒトホーフェンの転出を受けて地理学を受け持つ。没するまで18年近く当大学での活動となる。この間、歴史学者のヴィルヘルム・ハインリヒ・ロッシャーや、物理学者ヴィルヘルム・オストヴァルト、心理学・哲学者のヴィルヘルム・ヴントらを知り、影響を受ける。彼は、蔵書の拡大とゼミの活動の拡張に尽力した。学生からの人気により、彼の地理学の講義の聴講者の数は急速に増加した。

しかし、研究活動と教育活動がまだ途上のうちに、体調を崩し1904年にアーメルラント(英語版)で死去[1]。59歳であった。



功績・影響

ラッツェルは、ダーウィニズムの影響下に人類と自然の関係を体系化して人文地理学の基礎を固め[1]、政治地理学の祖と考えられている。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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