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フリードリヒ・ハインリヒ・ヤコービ(Friedrich Heinrich Jacobi, 1743年1月25日 - 1819年3月19日)は、ドイツの思想家、著作家。自らは「非哲学(Nichtphilosophie)」の立場を唱道し、人間の活動すべての基礎を、悟性的な論証によっては到達できない、私とともに神的人格が「ある!」ということの直接的な確信、すなわち「信(der Glaube)」のうちに求めた(したがって彼の立場はまた「信仰哲学(Glaubensphilosohie)」とも称される)。近年の研究によって、いわゆる「ゲーテ時代」におけるヤコービの主導性が認識されはじめている。 1743年に、デュッセルドルフの裕福なドイツ系ユダヤ人の商人の次男として生まれた。1770年までは商人として生計を立てていた。1771年にベルク公国の宮廷メンバーとして迎えられた。そこでは、財政への知識と社会改革への熱意からしだいに著名になっていった。 ヤーコビは、常に哲学と文学への関心を持ち続けていた。兄で詩人のヨハン・ゲオルク・ヤコービを介して、ドイツの詩人ヴィーラントとともに文学雑誌を刊行し、名を轟かす。当時の学者層とも知り合いが多く、レッシング、ハーマン、ヘルダー、ゲーテなどとは親交が深かった。 ヤーコビは文才があることでも知られ、彼の美文に惹かれた者が多かった。1785年のスピノザ論争を契機に哲学の論壇に登場する。1794年にはフランス革命軍がデュッセルドルフに襲来したため、同地を去り、その後はハンブルクなどに在住した。1804年にミュンヘン学士院に哲学教授として招聘される。1807年から1812年まではバイエルン学士院の長を務めた。 ヤコービの哲学的業績は、カント哲学に対する論駁と、フィヒテ、シェリングらドイツ観念論の哲学に対する論争にある。ヤコービの手法は自らの哲学的な体系をポジティブに主張するのではなく、「非哲学」として、論争相手となる哲学体系の内部に沈潜し、その根柢に潜む非理性的なもの、合理的根拠の不在を指摘する、というものであった(『スピノザ書簡』第三版「序文」参照)。しばしば彼の用いる術語について、それらの厳密さの欠如が指摘されるが、そのことはヤコービの思想の根本に論証的な合理性への不信がある、ということにも起因しているわけである。 ヤコービによると「信仰(Glauben)こそがあらゆる認識のエレメント」であるという。悟性による「論証」では、超感性的な対象(とりわけ神)を把握することはできない。しかし人間の精神、人間の理性は、論弁的な部分と並んで、超感性的、超自然的なものを直接的に受容する能力を備えている。それによって、人間はなにかしらが「ある!」という事実を感情的に感得することができる。スピノザに代表されるすべての思弁的論証(それがヤコービの言う「哲学」である)は、論理の「媒介[要曖昧さ回避](Vermittlung)」の体系的な網目を循環しているだけであり、その体系を根底において支え保持している超感性的なものを捉えることができない。
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