フリードリヒ・ハインリヒ・フォン・ゼッケンドルフ
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フリードリヒ・フォン・ゼッケンドルフバイエルンのケーニヒスベルク城にあるゼッケンドルフ元帥の銘板

フリードリヒ・ハインリヒ・フォン・ゼッケンドルフ(ドイツ語: Friedrich Heinrich von Seckendorff, 1673年7月5日ケーニヒスベルク・イン・バイエルン(en) - 1763年11月23日、モイゼルヴィッツ(en))伯爵は、神聖ローマ帝国元帥外交官である。ゼッケンドルフ家出身。

プロイセン王国の王太子フリードリヒ(後のフリードリヒ2世)とハプスブルク家の皇女マリア・テレジアとの婚約を意欲的に提案した[1]と言われているが、ハプスブルク家に仕えていたオイゲン公の意向を受け、イギリス王女アメリア・ソフィー(en)とフリードリヒの婚姻によるイギリスとプロイセンの連携を阻止すべく、代わりに王大子とブラウンシュヴァイク=ベーヴェルン家の公女エリザベート・クリスティーネとの結婚に尽力し成功を収めた[2][3]
生涯

ゼッケンドルフはイェーナライプツィヒ及びライデンの各大学法学を学び、1693年オラニエ=ナッサウ家領、続いてザクセン=ゴータ公領(en)及びアンスバッハ侯領、そして1697年神聖ローマ帝国軍(en)に仕官した。1698年にはオイゲン公指揮下で大トルコ戦争に参加している。アドルフ・メンツェル(en)が描いたハインリヒ・フォン・ゼッケンドルフ(19世紀の作品)

スペイン継承戦争では1704年ブレンハイムの戦いで指揮下のアンスバッハ竜騎兵連隊の先頭に立ち、16本の軍旗を奪った。続いて大佐に昇進するとラミイの戦い1706年)とアウデナールデの戦い1708年)、リール包囲戦(1708年)にも参加した。その後、少将としてポーランド王兼ザクセン選帝侯アウグスト2世に仕官し、フランドルでザクセンからの派遣軍 (de:Ansbachsches Grenadier-Bataillon) を率いる。1713年、ポーランドの大使としてハーグユトレヒト条約の交渉に参加し、1715年にザクセン公国軍(en)司令官としてシュトラールズントの攻略に携わり、1717年には中将へと昇進した。

オイゲン公の指揮下で参加した墺土戦争1717年ベオグラード包囲戦ではアンスバッハ侯領の2個連隊を率い、四カ国同盟戦争中の1718年にはシチリアスペイン軍と戦って勝利を収め、同軍に撤収を強いている。1719年、帝国伯(en)に叙せられると1721年には砲兵大将(en)に昇進した。

1726年以降はベルリンの宮廷で神聖ローマ帝国の大使を務めており、プロイセンフリードリヒ・ヴィルヘルム1世の寵愛を受けて大きな影響力を振るっていたグルンプコウ(en)と組んで極めて巧妙にオーストリアの利益を引き出している。また王太子フリードリヒブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公女エリーザベト・クリスティーネの婚約を成立させ、ドイツ諸邦やネーデルラントそしてデンマーク各地の宮廷で国事詔書への承認の獲得に尽力した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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