フリードリヒ・カール・フォン・プロイセン
Friedrich Karl von Preusen
称号プロイセン王子
敬称殿下
出生 (1828-03-20) 1828年3月20日
プロイセン王国、ベルリン
死去 (1885-06-15) 1885年6月15日(57歳没)
ドイツ帝国
プロイセン王国、ポツダム郊外
埋葬 ドイツ帝国
プロイセン王国、ベルリン、ヴァンゼー、聖ペテロ・パウロ教会
配偶者マリア・アンナ・フォン・アンハルト=デッサウ
子女一覧参照
家名ホーエンツォレルン家
父親プロイセン王子カール
母親マリー・フォン・ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ
役職 陸軍元帥
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フリードリヒ・カール・ニコラウス・フォン・プロイセン(Friedrich Karl Nikolaus von Preusen, 1828年3月20日 - 1885年6月15日)は、プロイセン王国の王族、軍人。 プロイセン王子カール・フォン・プロイセンとマリー・フォン・ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハの長男としてベルリンに生まれた。10代から軍人になるための教育を受け、1842年から1846年までアルブレヒト・フォン・ローンの講義をボン大学で受けた。1848年の第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争ではウランゲル伯フリードリヒ
生涯
1866年の普墺戦争ではプロイセン王国第2軍を率いてケーニヒグレーツの戦いに大勝した。1871年の普仏戦争ではドイツ帝国陸軍第2師団を指揮し、メス包囲戦に勝利した。また、オルレアンやル・マンを陥落させ、この功績によりドイツ陸軍元帥となった。ポツダム郊外にて没。 1854年、アンハルト=デッサウ公女マリア・アンナと結婚した。2人の間には5子が生まれた。
子女
マリー(1855年 - 1888年) - オランダ王子ヘンドリックと結婚、のちアルベルト・フォン・ザクセン=アルテンブルクと結婚
エリーザベト・アンナ(1857年 - 1895年) - オルデンブルク大公フリードリヒ・アウグスト(2世)と結婚
アンナ・ヴィクトリア(1858年、夭折)
ルイーゼ・マルガレーテ(1860年 - 1917年) - コノート公アーサーと結婚
フリードリヒ・レオポルト(1865年 - 1931年)
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