この項目では、ロンドンの道路について説明しています。日本の競走馬については「フリートストリート」をご覧ください。
フリート・ストリート英: Fleet Street
フリート街
2008年のフリート・ストリート
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所属A4 (en
フリート・ストリートもしくはフリート街(英: Fleet Street)は、シティ・オブ・ロンドンの主要道路のひとつである。通りはシティ・オブ・ウェストミンスターのチャリング・クロス(トラファルガー広場)から東に向かうストランド (The Strand) が接続する区境部テンプル・バー(英語版)を西の起点とし、ロンドン・ウォールや名前の由来となったフリート川のあるラドゲート・サーカス(英語版)を東の起点として東西に走る[2]。
通りはブリタンニア時代から重要な迂回路だったが、中世には沿道で商売が行われるようになった。この時期には高位の聖職者もフリート街に居住したが、これはテンプル教会やセント・ブライズ教会(英語版)などの教会が近くにあったためである。16世紀の初めからは印刷出版業で知られるようになり、交易の中心地となった通りには、20世紀までに多くの国内新聞社が本社を構えるようになった。ニュース・インターナショナル(現ニュースUK(英語版))が安い工場用地を求めてタワーハムレッツ区ワッピングへ移転した後、1980年代には多くの印刷出版業者が転出してしまったが、以前新聞社が入居していた建物には、イギリス指定建造物となり現在も保存されているものがある。「フリート街」という単語は英国の国内新聞社を示す換喩としても使われており、かつてジャーナリストたちが足繁く通っていたパブは現在でも人気を誇っている。
フリート街には全長に渡って多数の記念碑や像が立てられている。テンプル・バーにはドラゴンの像があるほか、通りにはサミュエル・ピープスやアルフレッド・ハームズワース (初代ノースクリフ子爵)など英国出版業に関わった人物の像が存在する。通りはチャールズ・ディケンズの複数作品に登場するほか、架空の殺人理髪師スウィーニー・トッドが住んでいた場所としても知られている。
地理フリート街の道路標識。通りに沿った番地は西から南東方向に連続して振られた後、東から北西方向へ戻るように振られる
フリート街の名前は、シティ・オブ・ロンドン(シティ)の西端をハムステッドからテムズ川へ流れる、フリート川に因んだものである。通りは元々のシティから外に作られた最古の道路のひとつで、中世までには完成していた[3][4]。13世紀にはフリート・ブリッジ・ストリート(英: Fleet Bridge Street)と呼ばれていたが、14世紀初めに現在と同じくフリート・ストリート(英: Fleet Street)と呼ばれるようになった[5]。
通りはシティとウェストミンスターの境界であるテンプル・バー(英語版)から始まって東へ走る。通りの西側には、トラファルガー広場から始まるストランドが続く。フリート街はチャンスリー・レーン(英語版)やフェター・レーン(英語版)と交差したあと、ロンドン・ウォールのあるラドゲート・サーカス(英語版)へ行き着いて終わり、東側のラドゲート・ヒル(英語版)へと続く。