フリーデリケ・フォン・プロイセン_(1796-1850)
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フリーデリケ
Friederike
アンハルト=デッサウ公妃
アンハルト=デッサウ公妃フリーデリケ(フランツ・クリューガー画)
在位1818年4月18日 - 1850年1月1日

全名一覧参照

Friederike Luise Wilhelmine Amalie
フリーデリケ・ルイーゼ・ヴィルヘルミーネ・アマーリエ

出生1796年10月30日
プロイセン王国ベルリン
死去 (1850-01-01) 1850年1月1日(53歳没)
アンハルト=デッサウ公国デッサウ
埋葬 アンハルト=デッサウ公国デッサウ、聖マリア教会
結婚1818年4月18日
配偶者レオポルト4世
子女一覧参照
家名ホーエンツォレルン家
父親ルートヴィヒ・フォン・プロイセン
母親フリーデリケ・ツー・メクレンブルク
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フリーデリケ・フォン・プロイセン (ドイツ語: Friederike von Preusen, 1796年10月30日 - 1850年1月1日)は、アンハルト=デッサウレオポルト4世の妃。
生涯

1796年10月30日、プロイセン王子ルートヴィヒと妃であるメクレンブルク=シュトレーリッツ大公女フリーデリケの第3子として[1]ベルリンで生まれた。父ルートヴィヒはプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世の次男である。フリーデリケ・ルイーゼ・ヴィルヘルミーネ・アマーリエ(Friederike Luise Wilhelmine Amalie)と名付けられた。

フリーデリケの誕生後間もない同年12月28日、父はジフテリアに罹患し急死した。その後母フリーデリケは2度再婚したため、幼いフリーデリケは2人の兄たちとともにベルリンの宮廷で育った。母の再婚により、ハノーファーゲオルク5世を含む多くの異父弟妹を持つことになる。

1818年4月18日、ベルリンでアンハルト=デッサウレオポルト4世と結婚した[1][2]。プロイセン宮廷がすでに2人の縁談を手配しており、1816年5月17日に婚約していた。プロイセンとアンハルトの縁談は、レオポルト4世の親プロイセン政策を表したものだった。2人は6子をもうけた。

フリーデリケは1850年1月1日にデッサウで亡くなった。夫レオポルト4世は21年後の1871年5月22日に亡くなった。
子女

アウグステ(1819年 - 1829年)

アグネス
(英語版)(1824年 - 1897年) - ザクセン=アルテンブルク公エルンスト1世

男児(1825年) - 死産あるいは出生後に死去

男児(1827年) - 死産あるいは出生後に死去

フリードリヒ1世(1831年 - 1904年) - アンハルト公、ザクセン=アルテンブルク公女アントイネッテと結婚

マリア・アンナ(1837年 - 1906年) - プロイセン王子フリードリヒ・カール

脚注[脚注の使い方]^ a b Lundy, Darryl. “ ⇒The Peerage: Friederike Wilhelmina Luise Amalie Prinzessin von Preusen”. 2022年9月18日閲覧。
^ Martin, pp. 187-188.

参考文献

Martin, Frederick (1866). The Statesman's Year Book, 1866. London: Macmillan and Co. 

外部リンク

ウィキメディア・コモンズには、フリーデリケ・フォン・プロイセン (1796-1850)に関するカテゴリがあります。

先代
ルイーゼ・フォン・ブランデンブルク=シュヴェートアンハルト=デッサウ公妃
1818年 - 1850年次代
アンハルト公国に統一

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