フリーク・アウト!
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『フリーク・アウト!』
フランク・ザッパ / マザーズ・オブ・インヴェンションスタジオ・アルバム
リリース1966年6月27日
録音1966年3月9日 - 3月12日
カリフォルニア州ハリウッドTTGスタジオ
ジャンルロック実験音楽ドゥーワップ、その他
時間60分55秒
レーベルヴァーヴMGM
プロデューストム・ウィルソン
専門評論家によるレビュー


Allmusic link

チャート最高順位

130位[1](ビルボード・ポップ・アルバム)

Frank Zappa アルバム 年表

-フリーク・アウト!
(1966年)アブソリュートリー・フリー
(1967年)

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『フリーク・アウト!』 (Freak Out!) は、フランク・ザッパをリーダーとするマザーズ・オブ・インヴェンションのデビュー・アルバムである。1966年6月27日ヴァーヴ / MGMよりリリースされた。ロック・ミュージックにおける最も初期のコンセプト・アルバムの1枚に数えられることが多いが、このアルバムの真のテーマは、アメリカのポップ・カルチャーに対するザッパの特異な見解にもとづいた皮肉である。また、このアルバムはロックの歴史上最も早い時期に制作された2枚組アルバムでもある。

アルバムをプロデュースしたのはトム・ウィルソンで、すでにボブ・ディランサイモン&ガーファンクルなどを手がけていた(『フリーク・アウト!』発売後にヴェルヴェット・アンダーグラウンドの「日曜の朝」をプロデュース)。マザーズはもともとソウル・ジャイアンツと名乗るバー・バンドであったが、ウィルソンが彼らとアルバム制作の契約を結んだのは、彼らのことをホワイトブルース(白人の演奏するブルースの総称)のバンドだと思い込んでいたためである[2][3]。アルバムで主に演奏しているのは、ザッパの他にレイ・コリンズ(Vo.)、ロイ・エストラーダ(B.)、ジミー・カール・ブラック(Dr.)、エリオット・イングバー[注釈 1](G)らである[4][5]

バンドの最初のレパートリーは全てカヴァー曲であった。ザッパがバンドに加わった際に、バンド名を変えただけでなく、広範なオリジナルの楽曲を含めてバンドの音楽性の幅を広げていったのである。『フリーク・アウト!』の音楽的な内容はR&Bドゥーワップ、スタンダードなブルースロックからオーケストラ・アレンジ、前衛的なサウンド・コラージュにまで及ぶ。当初アメリカ本国では注目を引かず、むしろヨーロッパで成功を収めた。やがてアメリカでもカルト的な人気を呼び、1970年代の初めに早くも生産中止となるまでに少なからず売れつづけた。

このアルバムはビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』にも影響を与えた[6]1999年グラミー賞で殿堂入りし[7]2003年にはローリング・ストーン誌の500 Greatest Albums of All Timeの第243位にも選出された[8]2006年には、発売40周年を記念して本作の制作時の様子を伝えるオーディオ・ドキュメンタリー "The MOFO Project/Object" がリリースされた[9][10]
歴史

1960年代の初頭にフランク・ザッパはレイ・コリンズと出会った。コリンズは大工として生計を立てており、毎週末にソウル・ジャイアンツというグループで歌っていた。コリンズと喧嘩したギタリストのレイ・ハントがバンドを辞めて後任を探していたため、ザッパが加わることとなる[2][11]。ソウル・ジャイアンツのレパートリーは全てカヴァー曲であったが、ある夜のこと、ザッパはオリジナル曲を演奏するようにしてレコード契約を取り付ける努力をすべきであると提案した。メンバーの大半はその案に賛成したが、当時のリーダー兼サックス奏者のデイヴィ・コロナードは反対した。当時彼らが主な演奏活動の舞台としていたバーやクラブではおなじみのスタンダード・ナンバーの演奏しか求められておらず、オリジナル曲を演奏するようになると仕事が減ると考えたためであるが、他のメンバーがザッパの意見に与したためコロナードはバンドを去った[2][3]。しかし自作曲を演奏するようになったバンドはどの店からも放り出され、コロナードが完全に正しかったことはすぐに証明されたとザッパは自伝で述べている。

ソウル・ジャイアンツは1964年5月10日母の日)にマザーズと改名し、ザッパがバンドのリーダーとなった[2]。このころから再び徐々にライヴ演奏の仕事も増えてゆき、1965年にはハリウッドのウィスキー・ア・ゴーゴーに出演する機会を得た。このときバンドのマネージャーであったハーブ・コーエンがMGMのプロデューサーであったトム・ウィルソンを連れて来ることに成功した。ウィルソンは高まりつつあったバンドの評判を耳にしてはいたが、演奏はワッツ暴動に触発された「トラブル・エヴリデイ」 ("Trouble Every Day") 1曲しか聴いたことがなかった[11]。その上ウィルソンが店内に足を踏み入れたとき、マザーズは派手なブギを演奏していた。マザーズの普段のレパートリーとはかけ離れた唯一のまともな曲であったが、これだけを聴いて気に入ったウィルソンはマザーズのことをいわゆるホワイト・ブルース・バンドだと思い込み[2][3]、1966年の初めに傘下のヴァーヴ・レコードとのアルバム契約と2,500ドルの前渡し金をバンドに提示した。マザーズは1966年3月1日に契約を結び、早速アルバムの準備に取り掛かった。

ザッパはソウル・ジャイアンツに加入する前の1960年代はじめに映画『ラン・ホーム・スロー』(原作者はザッパの高校時代の英語教師)のサウンドトラックの制作という仕事をしていた。当初の契約よりも低いギャラしか支払われなかったが、その金で機材や自身のスタジオ「スタジオZ」を購入したザッパは、残りの未払い分を請求した。経済的に破綻していた映画のプロデューサーは、デッカ社のオーケストラ練習場を無料で使用する許可を与えた[2]。デビュー前のバンドとしては最高のリハーサル会場を得たマザーズは、修練を重ねてファースト・アルバムの制作に備えた。


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