フリヴニャ
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この項目では、現代ウクライナの通貨について説明しています。その他の用法については「グリヴナ」をご覧ください。

フリヴニャ
гривня
2015年発行の500フリヴニャ紙幣
ISO 4217
コード
UAH
中央銀行ウクライナ国立銀行
 ウェブサイト ⇒www.bank.gov.ua
使用
国・地域 ウクライナ
インフレ率10.3 % (2021年)
 情報源[1], 2022年 1月5日
ERM
 開始日1996年9月2日
補助単位
 1/100コピーカ (коп?йка)
通貨記号
硬貨
 広く流通1, 2, 5. 10 フリヴニャ
 流通は稀10, 50コピーカ
紙幣20, 50, 100, 200, 500, 1000フリヴニャ

フリヴニャ(ウクライナ語: гривня [??r?u?n??] ( 音声ファイル) フルィーウニャ)は、ウクライナ通貨単位。

国際通貨コード(ISO 4217)は「UAH」。ウクライナ語の略称は「грн. (hrn.) 」。補助単位はコピーカ (коп?йка [ko?p?ii?k?] ( 音声ファイル)) であり、1フリヴニャ=100コピーカである。通貨記号は、「₴()」(キリル文字Г」の筆記体に横二重線を重ねたもの)である。
名称「ウクライナ#言語」および「ウクライナの言語」も参照

ウクライナの諸言語での名称言語ラテン文字キリル文字仮名
ウクライナ語hryvnia, hrivnia, hryvnyaгривняフリヴニャ
ロシア語grivnaгривнаグリヴナ、フリヴナ
クリミア・タタール語grivnaгривна
ハンガリー語hrivnya
ルーマニア語grivn?гривнэ

歴史
20世紀まで

フリヴニャは11世紀キエフ大公国で通貨として使われていた(グリヴナ)。これは、ルーシ全体の通貨であったとされる。

フリヴニャはスラヴ語のgrivaから派生している。現在ではフリヴニャはたてがみという意味であるが、もとは印欧祖語で「」を意味する語が語源と考えられている。例えばサンスクリット「??????(griva)」はこの意味である。そこからフリヴニャは、’’首’’の周りに着用されるで作られた装飾品を指し示すようになり、転じて一定の重さの金塊か銀塊を示すことになった。

当時は他にもノガタ、クナ、ヴェクシャの3つの補助単位が使われていた。ノガタ (nogata) はのような大きな動物の毛皮を意味し、クナ (kuna) はテンなどの小動物の毛皮を意味している。最も小さなヴェクシャ (veksha) はリスの毛皮を意味している。

キエフ大公国の菱形フリヴニャ。

ヴォロディーメル1世大公の銀貨。

スヴャトポルク1世の銀貨。

ロシア帝国時代は、ウクライナではカルボーヴァネツィと呼ばれたルーブルが通貨単位として用いられた。ウクライナにおけるルーブリは、それまでのフリヴニャに新たに名称を与えるという形で現れた。のち、ズロトニクなど帝国共通の単位が用いられるようになった。
ウクライナ内戦期

1917年に成立したウクライナ人民共和国では、共和国成立以前からウクライナ中央ラーダによって新しいウクライナの通貨の選定が行われていた。最初に採用されたのはカルボーヴァネツィで、1917年7月18日に決定された。これは、ロシアの通貨単位ルーブリのウクライナ名がカルボーヴァネツィであったことを考えれば、ウクライナが独自の通貨を定めることにより自国の独自性を強調すると同時に、ロシアとの連携関係も重視していたことを意味していると考えられる。補助単位としてはシャーフが採用され、200シャーフで1カルボーヴァネツィとされた。

しかし、十月革命ボリシェヴィキが政権を奪取すると、それを非難したウクライナとソビエト・ロシアの関係は急激に悪化、ウクライナ・ソビエト戦争が開始された。12月19日には100カルボーヴァネツィに相当する単位としてクピュラが制定された。1918年1月、赤軍によって首都を追われたウクライナ政府はドイツ帝国と同盟することで首都を奪還した。

ウクライナ人民共和国の100フリヴニャ(表)。

ウクライナ人民共和国の100フリヴニャ(裏)。

ウクライナ国の100カルボーヴァネツィ(表)。

ウクライナ国の100カルボーヴァネツィ(裏)。

こうした中、3月1日には、新たな通貨単位としてフリヴニャが選定された。補助単位としてはシャーフが用いられた。この単位は、100シャーフおよび1/2カルボーヴァネツィに相当するとされ、2、10、100、500、1000、2000フリヴニャ紙幣が発行された。これらは、ドイツで造幣された。

4月のヘーチマンの政変によって成立したウクライナ国では、カルボーヴァネツィとクピュラ、シャーフが基本単位として用いられた。12月にディレクトーリヤが政権を奪取しウクライナ人民共和国を復活させると、基本単位はフリヴニャに置かれた。しかし、1919年10月までカルボーヴァネツィの発行は続けられた。その後、ウクライナ人民共和国は戦争に敗れて壊滅し、政府は海外へ亡命した。
ソ連時代

ソ連時代、ウクライナではソ連カルボーヴァネツィと呼ばれる通貨が使用されたが、これはソ連全体で言うところのソ連ルーブリと同じものであった。ウクライナ的なフリヴニャは排除され、多くは破棄された。

1941年から1944年のあいだナチス・ドイツによってポーランドからベラルーシ南ロシアにかけて建国された国家委員領ウクライナ(ライヒスコミッサリアート・ウクライナ)では、ソ連ルーブリにかわってカルボーヴァネツィが通貨単位として採用された。これは、ドイツの撤退と国家委員会の崩壊により廃止され、再びソ連ルーブリに戻された。
ウクライナの独立時代

ウクライナの独立により、1992年にソ連時代に使用されていたソ連ルーブリにかわって採用されたのがカルボーヴァネツィ(通称クポーン)であった。

1クポーン(1991年)

3クポーン(1991年)

5クポーン(1991年)

10クポーン(1991年)

50クポーン(1991年)

100クポーン(1991年)

10万クポーン(1994年)

100万クポーン(1995年)
フリヴニャのサイン

しかし、経済の混乱もありこの通貨は一時的単位に終わった。極度のインフレにより流通する通貨の桁は数万から10万にまでなり、1996年には新たな通貨単位フリヴニャへの転換が実行された。それまでの10万カルボヴァーネツィが1フリヴニャに換算され、切り替えは年内に実施された。これは、実質的なデノミネーションであった。なお、補助単位としては1992年よりコピーカが用いられているが、ロシア系のこの単位のかわりにウクライナ系のシャーフを採用するという動きもあったが、実現されなかった。

2003年には、公募によりフリヴニャのサインが「₴」に決定された。2004年ウクライナ国立銀行が、フリヴニャを示す綴りとして混同されていたгривня (hryvnia) とгривна (hryvna) の語源の公式調査に着手した。


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