フリッツ・ライナー
Fritz Reiner
基本情報
生誕1888年12月19日
出身地 オーストリア=ハンガリー帝国、ブダペスト
死没 (1963-11-15) 1963年11月15日(74歳没)
アメリカ合衆国、ニューヨーク
学歴リスト音楽院卒業
ジャンルクラシック音楽
職業指揮者
活動期間1909年 - 1963年
共同作業者ライバッハ歌劇場
フォルクスオパー
ドレスデン国立歌劇場
シンシナティ交響楽団
ピッツバーグ交響楽団
メトロポリタン歌劇場
シカゴ交響楽団
ポータル クラシック音楽
フリッツ・ライナー(Fritz Reiner, 1888年12月19日 - 1963年11月15日)は、ハンガリー出身の指揮者。シカゴ交響楽団音楽監督。
マジャル語名Reiner Frigyes(レイネル・フリジェシュ)、英語名Frederick Martin Reiner(フレデリック・マーティン・ライナー)。 手兵シカゴ交響楽団との録音は米RCAに残されており、その多くを同レーベルのLiving StereoシリーズのLPやCDで聴くことができる。 また、シカゴ交響楽団以外でのステレオ録音としては、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団やロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団、そして「交響楽団」[2]とのものが残されている。 レパートリーは広く、どの演奏も、オーケストラの機能性を十全に発揮した筋肉質で純度の高い表現を見せる。とりわけ、若き日に親交のあったリヒャルト・シュトラウスの交響詩、出身地ハンガリーの作曲家であるとともに学生時代の恩師にあたり、さらに個人的にも親しく交際していたバルトーク、圧倒的な力感に溢れたベートーヴェンの交響曲、などについては現在も非常に評価が高く、名盤とされる。また、ウィンナ・ワルツ集は、名ソプラノ歌手エリーザベト・シュヴァルツコップが「無人島に持っていく1枚」として選んだことで知られる。その他、ハイドン、ブラームス、チャイコフスキー、ムソルグスキー、ドヴォルザーク、リムスキー=コルサコフ、レスピーギ等、名盤とされるものは数多い。 経歴からも知られるように、ライナーは歌劇場指揮者としても活躍し、ドレスデン国立歌劇場ではワーグナー『パルジファル』をバイロイト歌劇場以外で初めて指揮した。また、ドレスデンではリヒャルト・シュトラウスに認められて、『サロメ』、『エレクトラ』、『影のない女』、などを次々に上演した。ただ、公式録音でのオペラは、わずかにモノラルのビゼーの『カルメン』(RCA管弦楽団)、ステレオのリヒャルト・シュトラウスの『エレクトラ』抜粋(シカゴ交響楽団)が残されているだけである。
生涯
ブダペスト生まれ。法律学を修めた後、リスト音楽院に学び、バルトーク、コダーイ等に師事。学生オーケストラではティンパニを担当する。
1909年、音楽院を卒業。ブダペストのコミック・オペラに入団し、ティンパニ奏者と声楽コーチを兼ねる。
1910年、ライバッハ歌劇場に移り、ビゼーのオペラ『カルメン』で指揮者デビュー。
1911年?1914年、ブダペスト・フォルクスオパーで活躍。
1914年、ドレスデン国立歌劇場指揮者(?1921年)。リヒャルト・シュトラウスと親交を持つ。
1922年、渡米してシンシナティ交響楽団音楽監督(?1933年)。
1933年、カーティス音楽院指揮科教授。同音楽院交響楽団を指導する。門下にレナード・バーンスタイン、ルーカス・フォス、ワルター・ヘンドル等がいる。
1938年、ピッツバーグ交響楽団音楽監督(?1948年)。
1948年、メトロポリタン歌劇場指揮者(?1953年)。
この頃、RCA社がニューヨークにおいて編制した録音専用オーケストラであるRCAビクター交響楽団を指導し、アメリカ一流の水準に育て上げる。同楽団とは、ウラディミール・ホロヴィッツのピアノによる、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」、ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番などを録音する。
1953年、シカゴ交響楽団の音楽監督(最終年度の1962-63年シーズンは音楽顧問)に就任。死去までの10年間、同楽団の黄金時代を築く。
1960年10月7日(シカゴ交響楽団の1960-61年シーズンが開始される直前だった)、心臓病の発作をおこして入院、すべてのコンサートをキャンセルして療養する。翌1961年3月30日、シカゴ交響楽団の指揮台に復帰する(その時の曲目はベートーヴェンの「交響曲第6番『田園』」等)。ただし、それ以降は指揮台で椅子を使うなど、指揮活動に制限が加わる。
1962年、シカゴ交響楽団音楽監督の任期満了により、同楽団音楽顧問に就任。
同年、イギリスを訪れ、ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団とブラームスの交響曲第4番の録音をおこなう[1]。
1963年4月18・19日、シカゴ交響楽団との最後のコンサート(ロッシーニ「セミラーミデ」序曲、ブラームス「交響曲第2番」、ベートーヴェン「ピアノ協奏曲第4番」〈ピアノ:ヴァン・クライバーン〉)および録音(クライバーンとのベートーヴェン「ピアノ協奏曲第4番」)を行う。その後、シカゴ交響楽団音楽顧問を退任。
同年9月、最後の録音(ハイドン「交響曲第95番・101番」〈管弦楽:「交響楽団」〉)をニューヨークで行う。
同年11月15日、メトロポリタン歌劇場でのワーグナーの楽劇「神々の黄昏」の公演準備中、ニューヨークにおいて肺炎を患って死去した。なお、12月にはシカゴ交響楽団と75歳の誕生日の記念コンサートを行う予定となっていたが、これは果たすことができなかった。
演奏と録音
主要な録音[3]
シカゴ交響楽団との録音