フリッツ・ハーバー
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フリッツ・ハーバー
Fritz Haber
『Les Prix Nobel』(1919年公刊)より。
生誕1868年12月9日
プロイセン王国・ブレスラウ
(現: ポーランドヴロツワフ
死没1934年1月29日(1934-01-29)(65歳)
スイスバーゼル
国籍 ドイツ
研究分野物理化学
研究機関スイス連邦工科大学チューリッヒ校
カールスルーエ大学
出身校ハイデルベルク大学ベルリン大学
シャルロッテンブルク工科大学
博士課程
指導教員カール・リーバーマン
主な業績肥料爆発物ハーバー・ボッシュ法ハーバー・ワイス反応化学兵器
主な受賞歴ノーベル化学賞 (1918年)
プロジェクト:人物伝
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ノーベル賞受賞者
受賞年:1918年
受賞部門:ノーベル化学賞
受賞理由:アンモニア合成法の開発

フリッツ・ハーバー(Fritz Haber, 1868年12月9日 - 1934年1月29日)は、ドイツ出身の物理化学者、電気化学者。空気中の窒素からアンモニアを合成するハーバー・ボッシュ法で知られる。第一次世界大戦時に塩素を始めとする各種毒ガス使用の指導的立場にあったことから「化学兵器の父」と呼ばれることもある。ユダヤ人であるが、洗礼を受けユダヤ教から改宗したプロテスタントである。
経歴
生い立ち

プロイセン王国シレジア(シュレージエン)のブレスラウ(現ポーランド領ヴロツワフ)でユダヤ人の家系に生まれた[1]。父のジークフリートは染料を主に扱う商人であった。また、母のパウラはジークフリートの叔父の娘である[2]。パウラはフリッツを産んだ3週間後に産後不良で死去し、ジークフリートはその6年後に再婚した[3]。この再婚相手はフリッツに優しく接し、関係は良好であった。しかし当の父親とフリッツは性格が異なり、しばしば対立した[4]

11歳のときにギムナジウムに入学した。ギムナジウムでは文学や哲学を学び、詩を自作した一方で化学にも興味を持った。はじめ自宅で実験を行っていたが、異臭がするからなどの理由で父親に禁止されたため、その後は叔父のヘルマンの家で実験を行っていた[3]。卒業後、家業を手伝わせたいという父親の意向により、ハンブルクの染料商に弟子入りし教育を受けた。しかしこの仕事場はフリッツには合わなかった。そのため2、3か月後に、叔父と継母の協力を得て、父親を説得し、染料商の仕事を辞め、1886年、ベルリン大学へと進学した[5]

フリッツは大学で化学を専攻した。当時のドイツは化学、特に有機化学の分野に秀でており、ベルリン大学にはそのドイツの有機化学の象徴的存在であるアウグスト・ヴィルヘルム・フォン・ホフマンがいた。フリッツが化学を専攻したのは、大学時代にホフマンの影響を受けたためともされているが、それ以前から化学への道を進む決心をしていたともいわれており、その時期についてははっきりしていない[6]

ベルリン大学で1学期化学を学んだあと、1年間ハイデルベルク大学ロベルト・ブンゼンに師事し[7][8][注釈 1]、その後2年間の兵役についた。兵役期間中には、後の妻となるクララ・イマーヴァールと出会った[9]

兵役終了後はベルリンシャルロッテンブルク工科大学で学んだ。ここでは有機化学の分野で名をあげたカール・リーバーマンに学んだ。そして1891年、ピペロナールの反応についての論文で博士号をとった[10]
求職

有機化学を学んでいたが、当時ドイツでは新しい学問分野である物理化学の人気が高まっていた。フリッツもこの分野に魅力を感じ、今までの専攻分野を変更して、物理化学における代表的な研究者であるヴィルヘルム・オストヴァルトのもとでの研究を望んだ[11]。しかし当時、ドイツの化学界はポストに比べて志望者が多く、とりわけオストヴァルトは人気が高かったため、オストヴァルトの研究員として働くことは叶わなかった。そのためフリッツは、職を求めて企業や大学を転々とし、少しの間、チューリッヒ工科大学のゲオルク・ルンゲ(ドイツ語版)のもとにも就いた[12]。しかし、なかなか思うような仕事場を見つけることができず、24歳の時に父親の染色商の手伝いを始めた[13]

ここでは商売の方法などをめぐり父親と意見が食い違った。そのうえ、フリッツは商業上の失敗により、会社に大きな損害を出してしまった[14]。親子の溝はますます深くなっていったため、フリッツは父の元を離れ、イェーナ大学で修学した。イェーナ大学ではルートヴィヒ・クノールのもとで1年半の間研究を行い、クノールとともにジアセトコハク酸エステルに関する論文を発表した[12][15]。また、この大学でルドルフ・シュトラウベの講義を聞いたことがきっかけとなり、フリッツはもう一度化学者になりたいという気持ちを強くした。そしてオストヴァルトに研究室に入れてくれるよう懇願したが、その願いは叶えられなかった[注釈 2]。フリッツは他の研究室を探し求め、1894年、カールスルーエ大学のハンス・ブンテ(ドイツ語版)のもとで、無給助手として働けるようになった[18]。こうしてフリッツは、25歳にしてようやく落ち着いた職場を得ることができた。

またこの頃、フリッツは洗礼を受け、ユダヤ教徒からキリスト教徒ルター派へと改宗した[18]。当時のドイツではユダヤ人に対する反感があったうえ、キリスト教徒以外は大学の研究職に就けないと知ったためであるという[19]。フリッツはもともと宗教には熱心でなかったため、改宗することによって形式的にでもドイツ人の一員となろうとしたのである[20]


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