フラ・アンジェリコ
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この項目では、イタリアの画家について説明しています。日本の競走馬については「フラアンジェリコ」をご覧ください。

フラ・アンジェリコ
ルカ・シニョレッリがフラ・アンジェリコの死後の1505年頃に『アンチキリストの支配』に描いた肖像画(部分)。オルヴィエート大聖堂
本名グイード・ディ・ピエトロ
誕生日1390年 / 1395年
出生地 イタリア
ヴィッキオ
死没年1455年2月18日
死没地 イタリア
ローマ
国籍 イタリア
運動・動向初期ルネサンス
芸術分野絵画
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フラ・アンジェリコまたはベアート・アンジェリコ(: Fra' Angelico / Beato Angelico、1390年 / 1395年[1] - 1455年2月18日)は、初期ルネサンス期イタリア人画家。本名はグイード・ディ・ピエトロ (Guido di Pietro) で、フラ・アンジェリコは「修道士アンジェリコ」を意味する通称であり、「アンジェリコ」は「天使のような人物」という意味である。同時代の人々からは「フィエーゾレの修道士ジョヴァンニ」を意味するフラ・ジョヴァンニ・ダ・フィエーゾレという名前でも知られていた[2]

フラ・アンジェリコは15世紀前半のフィレンツェを代表する画家で、イタリアでは存命時に「福者アンジェリコ」を意味するベアート・アンジェリコとも呼ばれており、これはフラ・アンジェリコが宗教的モチーフを題材とした絵画を描く才能に優れていたことに由来していた[3]。1982年に教皇ヨハネ・パウロ2世がフラ・アンジェリコを福者に認定したことにより[4]、名実ともに「ベアート・アンジェリコ(福者アンジェリコ)」となった。「フィエーゾレ」はフラ・アンジェリコの本名の一部だと誤解されることもあるが、単にドミニコ修道会に誓願を立てた場所の町名に過ぎず、他に同名のジョヴァンニという修道士がいたことから、二人を区別するために使用されただけである。ローマカトリック教会殉教者名簿 (en:Roman Martyrology) [5]には「福者ジョヴァンニ・フィエーゾレ、愛称アンジェリコ Beatus Ioannes Faesulanus, cognomento Angelicus」という名前で記載されている。

ジョルジョ・ヴァザーリはその著書『画家・彫刻家・建築家列伝』でフラ・ジョヴァンニ・アンジェリコという名前で記述し、「まれに見る完璧な才能の持ち主[6]」として次のように紹介している。

この修道士をいくら褒め称えても褒めすぎるということはない。あらゆる言動において謙虚で温和な人物であり、描く絵画は才能にあふれており信心深い敬虔な作品ばかりだった[6]
略歴『聖者と聖母子』部分(1424年 - 1425年頃)
聖ドミニコ教会(フィエーゾレ)
1395年 - 1436年

フラ・アンジェリコは14世紀末にトスカーナ州フィレンツェ北部のフィエーゾレ近郊ヴィッキオのルペカニーニャで生まれた[7]。フラ・アンジェリコの両親については一切知られていない。洗礼名はグイードかグイドリーノである。フラ・アンジェリコに関する最初の記録は、1417年10月17日にカルメル修道会が主催する信心会に入信したというもので、その記録にはグイード・ディ・ピエトロという名前で記されている。この記録にはフラ・アンジェリコがすでに画家として生計を立てていたことも書かれており、このことは1418年の1月と2月にサン・ステファノ・デル・ポンテ教会の依頼で絵画を描いて報酬を受け取ったという他の記録からも裏付けられる[8]。修道士としての記録が残っている最古の記録は1423年のもので、フィエーゾレのドミニコ修道会に入信したときに新しく名乗ったと思われるフラ・ジョヴァンニという名前が最初に記された記録となっている[9]

ヴァザーリの著作では、フラ・アンジェリコは当初装飾写本画家として修行を積み、ドミニコ派修道士で装飾写本作家でもあった兄ベネデットとともに働いていたのではないかとされている。フィレンツェのサン・マルコにはフラ・アンジェリコが制作に関わったと思われる装飾写本が所蔵されている[6]。画家ロレンツォ・モナコがフラ・アンジェリコの絵画の師ではないかといわれ、シエナ派の影響をフラ・アンジェリコの作品にみることができる。存命中に修道会で何度も重要な役職に就いたが、創作活動にはまったく影響を及ぼすことはなく、フラ・アンジェリコが描く絵画はたちまちのうちに有名になっていった。ヴァザーリによるとフラ・アンジェリコが最初に描いた作品は祭壇画で、フィレンツェのカルトゥジオ修道会のためのものとされるが現存はしていない[6]

フラ・アンジェリコは1408年から1418年にかけてコルトーナのドミニコ会修道院に滞在し、ゲラルド・スタルニーナ(Gherardo Starnina) の助手、あるいは部下として教会用のフレスコ画を制作しているが、この作品も現存していない[10]。1418年から1436年にはフィエーゾレの修道院で多くのフレスコ画、祭壇画を描いており、どれも保存状態は悪かったものの後年になってから修復されている。ロンドンのナショナル・ギャラリーには列福されたドミニコ派修道士ら250人以上の人物に囲まれるキリストの栄光を描いた祭壇画が完品の状態で収蔵されており、フラ・アンジェリコの才能を示す好例となっている。
1436年 - 1445年 サン・マルコ、フィレンツェ『マエスタ』(1437年 - 1446年頃)
サン・マルコ美術館(フィレンツェ)
玉座の聖母子と周りを囲む聖コスマス、聖ダミアン、聖ヨハネら聖人が描かれている

フラ・アンジェリコは1436年にフィエーゾレの修道院から、フィレンツェに新しく建設されたサン・マルコ修道院へと多くの修道士とともに移った。この移住はフラ・アンジェリコの画家としてのキャリアに重要な出会いをもたらした。当時のフィレンツェは芸術の最先端都市であり、さらにサン・マルコ修道院に世俗の厄介ごとから逃れるための大きな個室を持っていた[11]、フィレンツェでもっとも裕福な権力者コジモ・デ・メディチの知遇を得て、その後援を受けたのである。ヴァザーリによれば、コジモがフラ・アンジェリコに修道院の壮大な教会参事会会議場などの内部装飾を要請し、階段上部の『受胎告知』や各部屋の壁にキリストの生涯を描いた敬虔な小フレスコ画などを描かせたとなっている[6]

1439年にはもっとも有名な作品の一つである祭壇画『マエスタ』をサン・マルコ修道院のために描いているが、この作品は当時の絵画としては極めて異例なものだった。多くの聖人に囲まれた聖母子という構図自体はありふれたもので、明確に天界での光景として描かれ、聖人や天使は俗人よりもはるかに神聖な存在であることを示すために宙に浮かんで表現されるのが通常だった。しかしながらフラ・アンジェリコが描いたこの作品では聖人たちは普通に地上に立っており、聖母の栄光を共に分かち合うことを喜び、まるで談笑しているかのようなごく自然な姿で聖人たちを描き出している。このような構図は聖会話と呼ばれる絵画形式として知られるようになり、後にジョヴァンニ・ベリーニペルジーノラファエロ・サンティらも数多くの聖会話を手がけることとなった[12]
1445年 - 1455年 バチカン『聖ラウレンティウスを助祭に任ずる聖ペトロ』(1447年 - 1449年)
バチカン宮殿ニコラウス5世礼拝堂(バチカン)

1445年にローマ教皇エウゲニウス4世サン・ピエトロ大聖堂の秘蹟の礼拝堂のフレスコ画を描かせるために、フラ・アンジェリコをローマへと召致した[13]。ヴァザーリは、このときフラ・アンジェリコはローマ教皇ニコラウス5世からフィレンツェ大司教の地位を提示されたが、これを断って別の修道士を推薦したと断言している。このエピソードは現在伝わっているフラ・アンジェリコの人柄からするといかにももっともらしく思えるが、もしヴァザーリの著作に書かれた日付が正確であるとするならば、当時のローマ教皇はニコラウス5世ではなくエウゲニウス4世である[14]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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