フランドル
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

この項目では、現在のベルギー、オランダ、フランスにまたがる歴史的な地域について説明しています。ベルギーの連邦構成自治体については「フランデレン地域」を、その他の用例については「フランドル (曖昧さ回避)」をご覧ください。
1477年のネーデルラント17州の地図。フランドルは西部に位置する(9番)。 原地域名: Vlaanderen(フラーンデレン)
0 英語名: Flanders(フランダース)
0 日本語名: フランドル
言語: フラマン語
原形態: 中フランク王国伯領
かつての領主: フランドル伯
創設年: 862年
通貨:ドゥニエ

フランドル(オランダ語:  Vlaanderen0[ヘルプ/ファイル]、フランス語: Flandre、ドイツ語: Flandern)は、ベルギー西部(旧フランドル伯領)を中心とし、オランダ南西部、フランス北東部にまたがる地域[1]
概説

「フランドル」の呼称は、元々フランス語から由来している地域名である。日本では英語由来のフランダース(Flandersイギリス: [?fl??nd?rz], アメリカ: [?flan-] )もよく使用され、歴史学では古くからのオランダ語の発音に基づくフランデレンやフランデルン(舞台ドイツ語においても同様)、フラーンデーレン(Vlaanderen)も使用される。ドイツ語ではフランダーンもしくはフランデアン(Flandern)である。
沿革13世紀のブルッヘの取引所跡。1920年のフランドル大障害レース。

843年、ヴェルダン条約によりフランク王国が分割されたが、のちにフランドルとなる地域は中フランク王国に属することになり、フランス王家ヴァロワ家傍系のヴァロワ=ブルゴーニュ家の管轄となった。

ネーデルラントにおいてフランドルの領域が定まったのは、862年、鉄腕伯ボードゥアン1世(英語版)が西フランクシャルル2世の娘であるフランドルのユディト(英語版)と結婚し、初代フランドル伯の位を得たときである。当初はシャルル2世が結婚を認めなかったため、2人はローマ教皇ニコラウス1世に請願して婚姻許可を得た。870年には、メルセン条約による中フランク王国の解消にともない大部分が西フランク王国に併合された。フランドル伯は870年までにヘントの聖ペテロ修道院(英語版)の指定修道院長(英語版)の指定権を得、また、ワースラント(英語版)伯領を併合した。

1180年にはヘントにフランドル伯城(英語版)が築造されフランドル伯が居住した。

13世紀にはブルッヘハンザ同盟の在外商館が置かれ、金融・貿易の一大拠点として繁栄した。名門ブルセ家(オランダ語版)の邸宅に、毎日多数の商人が集まり取引所を形成した。取引所を意味するドイツ語の die Borse やフランス語の la bourse はこのブルセを語源としたものである。

フランドル伯は1353年に同じくヘントのプリンセンホフ(英語版)に居を移した。1384年にはフランドル女伯マルグリットフランス王国のヴァロワ=ブルゴーニュ家の初代ブルゴーニュ公フィリップと結婚したことから、フランドル伯国は以後、ブルゴーニュ公国ブルゴーニュ領ネーデルラントの州となった。その後ブルゴーニュ公兼フランドル伯はネーデルラント17州を徐々に掌握していった。

しかし1477年、シャルル突進公が戦死したときに後継の男子がおらず、シャルルの娘ブルゴーニュのマリーハプスブルク家の神聖ローマ帝国の王マクシミリアン1世と結婚した。これ以後フランドル伯国を含むネーデルラント17州はハプスブルグ家が継承する[注釈 1]

しかしスペイン・ハプスブルク家神聖ローマ皇帝カール5世ローマを陥落させたのち、ブラバント公国アントワープに世界初の証券取引所であるアントワープ証券取引所が設立されたたことなどから、貿易拠点としてはフランドル伯国は忘れられていった。

大航海時代が到来した16世紀、フランドルのプロテスタント勢力がスペイン・ハプスブルク朝と繋がりの深いカトリック教会に対して蜂起し、この暴動がネーデルラント北部に拡大した(宗教改革八十年戦争)。このとき、オラニエ公を始めフランドルの領主らは、フランドル伯フェリペ2世に暴動の責任を問われ、財産を没収されたり死刑になったりしている。

しかしプロテスタント勢力は北ネーデルラントを制圧し、のち講和条約のヴェストファーレン条約により、北部の州はネーデルラント連邦共和国(現在のオランダ王国の前身)として独立を果たした。

一方、フランドルの大部分を含む南部の州はカトリック勢力が巻き返して元通りハプスブルク領に留まり、南ネーデルラントとなった(のちのベルギールクセンブルクの地域とフランス・ドイツの一部地域)。

ネーデルラント連邦共和国は1795年、フランス革命戦争のなかで伯領が廃止となり、フランドルの一部は一時はバタヴィア共和国の地域となった(ナポレオン戦争が1815年に終わるまでフランス領であった)。

南ネーデルラントは1830年、ベルギー独立革命によりベルギー王国及びその統治下のルクセンブルクとなったことから、ほとんどの元フランドル伯国の地域は両国にまたがる形となっている。

1940年5月10日からオランダに侵攻したドイツ国防軍に対し、数十万のイギリス・フランス連合軍はフランドル地域で戦線を押しとどめようとしたが、5月28日にベルギーが降伏すると連合軍は抵抗する目途が立たなくなりダンケルクへと撤退。フランドルはナチス・ドイツにより占領された[2]
産業

毛織物業は11世紀から栄えていたが、14世紀に入るとイギリスからの輸入羊毛を加工して輸出するようになり、国際貿易の拠点となった[3]。近世はフランス法の下で軍馬開発産業も栄えた[4]ワレヘムの競馬場で1849年から、毎年フランドル大障害レース(英語版)が開催されている。
日本との関係


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:28 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef