フランツ・レハール
Franz Lehar
フランツ・レハール(1930年頃撮影)
基本情報
生誕 (1870-04-30) 1870年4月30日
出身地 オーストリア=ハンガリー帝国、コマーロム
死没 (1948-10-24) 1948年10月24日(78歳没)
オーストリア、バート・イシュル
ジャンルウィンナ・オペレッタ
フランツ・レハール(ドイツ語: Franz Lehar [?le?har, le?ha???]、ハンガリー語: Lehar Ferenc [?l?ha?r ?f?r?nt?s], 1870年4月30日 – 1948年10月24日)は、オーストリア=ハンガリー帝国生まれの作曲家。オーストリアやドイツを中心にウィンナ・オペレッタ(ドイツ語版)の分野で活躍した。
父親も同名であることから、まれに「フランツ・レハール2世」と呼ばれることもある。
生涯シュタットパーク(ドイツ語版)のレハール記念像
レハールは、ドイツ人を両親にハンガリーのコマーロムに生まれた。父のフランツは元々モラヴィア・シュムヴァルトからの移住者だが軍楽隊長として帝国内の転勤族[1]、母クリスティーネ・ノイブラントはハンガリーに代々長く住むドイツ植民者の家系であった。プラハ音楽院でドボルザークらに学び、軍楽隊長を経てウィーンでオペレッタ作曲家としてデビューする。「銀の時代」とよばれたウィンナ・オペレッタ(ドイツ語版)の第二黄金期を代表する作曲家となった。
1905年、『メリー・ウィドウ』で一躍人気作曲家となる。1909年発表の代表作『ルクセンブルク伯爵』はこれと系統を同じくする喜劇だが、その後徐々に作風を転換。従来のオペレッタの喜劇一辺倒を脱し、ある程度の笑いをおりまぜつつも基本はシリアスに展開する独自の形を確立していく。特に1925年に初演された『パガニーニ』、1927年の『ロシアの皇太子』、そして1929年の『微笑みの国』は、これまでのオペレッタには無かった悲劇的結末を採用しており、レハールの独特のウィンナ・オペレッタ路線を象徴する傑作である。この路線はウィーンでは必ずしも歓迎されず、上演拠点はベルリンに移された。
1934年、若き総監督のクレメンス・クラウスから依頼された初のウィーン国立歌劇場上演作品『ジュディッタ』以後は筆を折る。これをもってウィンナ・オペレッタの終焉と位置づける専門家も多い。
1938年3月にナチス党率いるドイツがオーストリアを統合した後には、レハールの妻のゾフィー(旧姓パシュキス)がユダヤ人の生まれ(レハールとの結婚に伴いカトリックに改宗)であったにも拘らずドイツのナチス党政権からの庇護を受けたが、そのもとで新作を発表することはなかった。
1945年8月(ヨーロッパでは5月)に第二次世界大戦が終結し、オーストリアが復活して3年後の1948年に同国のザルツブルク近郊のバート・イシュルで亡くなり、同地に埋葬された[2]。ウィーンのシュタットパーク(ドイツ語版)には、レハールの記念像がある。