フランツ・モーリッツ・フォン・ラシー
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フランツ・モーリッツ・フォン・ラシー
フランツ・モーリッツ・フォン・ラシー
生誕1725年10月21日
ロシア帝国サンクトペテルブルク
死没1801年11月24日
神聖ローマ帝国ウィーン
埋葬地 神聖ローマ帝国ウィーン、ノイヴァルデック(ドイツ語版)
所属組織 神聖ローマ帝国
部門神聖ローマ帝国軍
軍歴1743年 - 1790年代
戦闘オーストリア継承戦争

ヴェッレトリの戦い

七年戦争

ロボジッツの戦い

プラハの戦い

ブレスラウの戦い

ロイテンの戦い

ホッホキルヒの戦い

クネルスドルフの戦い

ドレスデン包囲戦

トルガウの戦い
バイエルン継承戦争
墺土戦争

フランツ・モーリッツ・フォン・ラシー伯爵(ドイツ語: Franz Moritz Graf von Lacy、1725年10月21日 - 1801年11月24日)、またはフランシス・モーリス・デ・レイシ(英語: Francis Maurice de Lacy)は、ペーター・フォン・ラシー伯爵の息子で、神聖ローマ帝国の軍人、元帥[1]マリア・テレジアの治世に従軍、神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世の親しい友人で顧問になった。
初期の経歴フランツ・モーリッツ・フォン・ラシーの紋章

1725年10月21日、サンクトペテルブルクで生まれた[2]。父のペーター・フォン・ラシー伯爵はアイルランド王国出身でフランス王国、ついでロシア帝国に渡り、ロシア軍の元帥に叙された[2]。フランツ・モーリッツ・フォン・ラシーはドイツで軍人となるための教育を受けた後、オーストリア軍に入隊した[2]オーストリア継承戦争ではイタリア、ボヘミアシュレージエンオーストリア領ネーデルラントを転戦、合計で2度負傷した[2]。終戦のときには中佐になり、25歳のときに大佐に昇進、歩兵連隊長になった[2]
七年戦争

1756年に七年戦争が勃発すると参戦、ロボジッツの戦いで頭角を現して少将に昇進した[2]。ロボジッツの戦いでも負傷したが、1757年のプラハの戦いで4度目の負傷をした[2]。同年末のブレスラウの戦いにおける勝利に貢献したほか、ロイテンの戦いで再び負傷しながら自軍の撤退を援護した[2]。直後からレオポルト・フォン・ダウン元帥とともにエルンスト・ギデオン・フォン・ラウドンの助力を借りて、終戦までプロイセン王フリードリヒ2世と戦った[2]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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