フランツ・フォン・パーペン
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ドイツ国政治家フランツ・フォン・パーペンFranz von Papen
パーペンの肖像写真 (1933年)
生年月日 (1879-10-29) 1879年10月29日
出生地 ドイツ帝国
プロイセン王国
ヴェストファーレン州(ドイツ語版)
ヴェルル
没年月日 (1969-05-02) 1969年5月2日(89歳没)
死没地 西ドイツ
バーデン=ヴュルテンベルク州
ザースバッハ(ドイツ語版)
出身校陸軍幼年学校
前職陸軍軍人 (陸軍中佐)
所属政党 中央党
(1932年除名)
「黒・白・赤」戦線 (1933年)
国家社会主義ドイツ労働者党
(1938年入党)
称号男爵(Baron)
一級鉄十字章
戦功十字章
配偶者マルタ・フォン・ボッホ=ガルハウ
サイン
ドイツ国トルコ大使
内閣ヒトラー内閣
在任期間1939年4月18日 - 1944年8月5日
総統アドルフ・ヒトラー
ドイツ国オーストリア大使
内閣ヒトラー内閣
在任期間1936年7月25日 - 1938年3月13日
総統アドルフ・ヒトラー
ドイツ国ウィーン公使
内閣ヒトラー内閣
在任期間1934年7月26日 - 1936年7月25日
大統領
総統パウル・フォン・ヒンデンブルク
アドルフ・ヒトラー
ドイツ国
第12代副首相
内閣ヒトラー内閣
在任期間1933年1月30日 - 1934年7月26日
大統領パウル・フォン・ヒンデンブルク
ドイツ国
第13代首相
内閣フォン・パーペン内閣
在任期間1932年6月1日 - 1932年12月3日
大統領パウル・フォン・ヒンデンブルク
その他の職歴
プロイセン自由州
初代・第3代総督 (国家弁務官)
1932年7月20日 - 1932年12月3日 [注釈 1]
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軍歴
陸軍大尉時代のパーペン (1915年)
所属組織 ドイツ帝国陸軍
プロイセン王国陸軍
オスマン帝国陸軍
軍歴1898年 ? 1919年
最終階級

陸軍中佐
(ドイツ帝国陸軍)
陸軍大佐
(オスマン帝国陸軍)
除隊後政治家、外交官
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フランツ・ヨーゼフ・ヘルマン・ミヒャエル・マリア・フォン・パーペン(ドイツ語: Franz Joseph Hermann Michael Maria von Papen  音声[ヘルプ/ファイル], Erbsalzer zu Werl und Neuwerk, 1879年10月29日 - 1969年5月2日)は、ドイツ貴族陸軍軍人政治家外交官爵位男爵。軍人としての階級は陸軍中佐。第13代ドイツ国首相、第12代副首相を務めた。
概要

ヴァイマル共和政末期の1932年にクルト・フォン・シュライヒャーに擁立されてパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領の大統領内閣の首相を務めたが、パーペン内閣(ドイツ語版)は半年ほどでシュライヒャーに見限られて瓦解した後、シュライヒャーとの政争で国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)党首アドルフ・ヒトラーと接近し、彼が首相になれるよう尽力するなどナチ党の権力掌握に大きな役割を果たした。1933年のヒトラー内閣成立でヒトラーに次ぐ副首相兼プロイセン州首相の座に就いた。しかし、「長いナイフの夜」事件で失脚し、その後はオーストリアトルコでドイツ大使を務めた。第二次世界大戦後、ニュルンベルク裁判で主要戦争犯罪人として起訴されたが、無罪とされた。
経歴
帝国軍人として

ドイツ帝国領邦であるプロイセン王国・ヴェストファーレン州(ドイツ語版)・ヴェルルに、製塩業で富をなしたエルプゼルツァー(ドイツ語版)(世襲の塩屋、の意味)と呼ばれる諸名家のうちのひとつに生まれる。両親の希望で陸軍幼年学校に入学し、軍人への道を進む。ドイツ皇帝の側近くに仕えたのち、第5槍騎兵連隊付きを経て参謀本部に入り、1913年大尉に昇進。そこでクルト・フォン・シュライヒャーと知り合う。当時パーペンは巧みな馬術で名声を得ていた。1905年に製陶業で有名なビレロイ&ボッホ社の創業家の娘と結婚して工場の一つを相続し(現存)、巨大な経済力を得た[1][2]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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