フランツ・シューベルト
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フランツ・シューベルト
Franz Schubert
1875年に描かれた油絵

基本情報
出生名フランツ・ペーター・シューベルト
Franz Peter Schubert
別名歌曲の王
生誕1797年1月31日
ドイツ国民の神聖ローマ帝国
オーストリア大公国リヒテンタール
死没 (1828-11-19) 1828年11月19日(31歳没)
オーストリア帝国ウィーン
ジャンルロマン派音楽
職業作曲家
活動期間1810年 - 1828年
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フランツ・ペーター・シューベルト(ドイツ語: Franz Peter Schubert[注釈 1], 1797年1月31日 - 1828年11月19日)は、オーストリア作曲家
生涯
誕生シューベルトの生家

シューベルトはウィーン郊外のリヒテンタールで生まれた。メーレン(モラヴィア)から移住したドイツ系植民の農夫の息子である父のフランツ・テオドール(1763年 - 1830年)は教区の教師をしており、母エリーザベト・フィッツ(1756年 - 1812年)は結婚前にウィーン人家族のコックをしていた。成人したのは長男イグナーツ(1785年 - 1844年)、次男フェルディナント(1794年 - 1859年)、三男カール(1795年 - 1855年)、次いで第12子のフランツ、娘のテレジア(1801年 - 1878年)だった。父はアマチュア音楽家で長男と次男に音楽を教えた。

フランツは5歳のときに父から普通教育を受け始め、6歳のときにリヒテンタールの学校に入学した。このころ、父は末息子のフランツにヴァイオリンの初歩を、また長男イグナーツにピアノを教え始めた。フランツは7歳ごろになると父の手に余るほどの才能を発揮し始めたため、父はフランツをリヒテンタール教会の聖歌隊指揮者ミヒャエル・ホルツァーの指導する聖歌隊に預けることにした。ホルツァーは主として感動表現に主眼を置いて指導したという。聖歌隊の仲間たちは、フランツの音楽的才能に一目を置いた。当時は演奏家として聴衆に注目されなければ音楽家としての成功の機会はないという時代だったため、しばしば聖歌隊の建物に隣接するピアノ倉庫にフランツを案内して、ピアノの練習を自由にできるように便宜を図った。そのおかげで、貧しい彼には触れられなかったような良質な楽器で練習、勉強をすることができた。
コンヴィクト

1808年10月、フランツはコンヴィクト(ドイツ語版)(寄宿制神学校)の奨学金を得た。その学校はアントニオ・サリエリの指導の下にあり、ウィーン楽友協会音楽院の前身校で、宮廷礼拝堂コーラス隊養成のための特別教室をもっていた。ここにフランツはおよそ17歳まで所属、フランツ・ヨーゼフ・ハイドンが聖シュテファン大聖堂で得た教育とほとんど同様に直接指導での得るところは少なく、むしろ学生オーケストラの練習や同僚の寄宿生との交際から得るものが多かった。フランツを支えた友人たちの多くはこの当時の同級生で、シュパウン(Spaun、1788年 - 1865年)、シュタットラー(Stadler)、ホルツアプフェル (Holzapfel)、その他多くの友人たちが貧しいフランツを助け、彼には買えない五線紙など、誠実な支持と励ましを与えた。また、このコンヴィクトでヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの序曲や交響曲、それらに類した作品や小品に初めて出会った。一方、才能は作曲の分野ですでに示しつつあった。1810年4月8日 - 5月1日の日付がある32ページにわたりびっしりと書かれた四手ピアノのための『幻想曲 ト長調』(D 1)、続いて1811年にはヨハン・ルドルフ・ツムシュテーク(1760年 - 1802年)が普及を図った計画にそって書かれた3つの長い歌曲、弦楽五重奏のための『序曲 ハ短調』(D 8)、『弦楽四重奏曲第1番 ト短調/変ロ長調』(D 18)、『幻想曲 ト短調』(D 9)がある。室内楽曲が目立っているが、それは日曜日と祝日ごとに、2人の兄がヴァイオリン、父がチェロ、自分がヴィオラを受け持って、自宅でカルテット演奏会が行われていたためである。これは後年、多くの作品を書くことになったアマチュア・オーケストラの萌芽をなすものだった。コンヴィクト在籍中には多くの室内楽、歌曲、ピアノのための雑品集を残した。また野心的に力を注いだのは、1812年の母の葬儀用と言われる『キリエ』(D 31)と『サルヴェ・レジーナ』(D 106)(それぞれ合唱聖歌)、『管楽八重奏曲 ヘ長調』(D 72)である。1813年には父の聖名祝日のために、歌詞と音楽からなるカンタータ『父の聖名の祝日のために』(D 80)を残した。学校生活の最後には最初の交響曲である『交響曲第1番 ニ長調』(D 82)が生まれた。
1813年 - 1815年シューベルトの初恋の相手といわれるテレーゼ・グロープの肖像画

1813年の終わりにシューベルトは、変声期を経て合唱児童の役割を果たせなくなったためコンヴィクトを去り、兵役を避けるために父の学校に教師として就職した。このころ、父はグンペンドルフの絹商人の娘アンナ・クライアンベックと再婚した。彼は2年以上この仕事に就いていたが、あまり関心を持てなかったようで、その代償を別の興味で補った。サリエリから個人的な指導を受けたが、彼はハイドンやモーツァルトの真似だと非難してシューベルトを悩ませた。しかし、サリエリは他の教師の誰よりも多くを彼に教えた。またシューベルトはグロープ一家と親密に交際しており、その家の娘テレーゼ・グロープ(1798年 - 1875年)は歌がうまくよい友人だった。彼は時間があれば素早く大量に作曲をした。完成された最初のオペラ『悪魔の別荘』(Des Teufels Lustschlos, D 84)と、最初の『ミサ曲第1番 ヘ長調』(D 105)はともに1814年に書かれ、同じ年に3曲の弦楽四重奏曲(第4番 ハ短調 D 46第6番 ニ長調 D 74第10番 変ホ長調 D 87)、数多くの短い器楽曲、『交響曲第1番』の第1楽章、『潜水者』(D 77)や『糸を紡ぐグレートヒェン』(D 118)といった傑作を含む7つの歌曲が書かれた。

1815年には、学業、サリエリの授業、ウィーン生活の娯楽にもかかわらず、多くの作品を生み出した。『交響曲第2番 変ロ長調』(D 125)が完成し、『交響曲第3番 ニ長調』(D 200)もそれに続いた。また、『ミサ曲第2番 ト長調』(D 167)と『ミサ曲第3番 変ロ長調』(D 324)の2つのミサ曲(前者は6日間で書き上げられた)、その他『ミサ曲第1番』のための新しい『ドナ・ノビス』(D 185)、『スターバト・マーテル イ短調』(D 383)、『サルヴェ・レジナ ヘ長調』(D 379)、オペラは『4年間の歩哨兵勤務』(Der Vierjahrige Posten, D 190)、『フェルナンド』(Fernando, D 220)、『クラウディーネ・フォン・ヴィラ・ベッラ』(Claudine von Villa Bella, D 239)[注釈 2]、『アドラスト』(Adrast, D 137、研究により1819年の作曲と推定)、『サラマンカの友人たち』(Die Freunde von Salamanka, D 326、会話の部分が失われている)の5曲が作曲された。他に『弦楽四重奏曲第9番 ト短調』(D 173)、3曲のピアノソナタ(第1番 ホ長調 D 157、第2番 ハ長調 D 279、第3番 ホ長調 D 459)、数曲のピアノ小品がある。


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