フランツ・コンラート・フォン・ヘッツェンドルフ
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フランツ・コンラート・フォン・ヘッツェンドルフ
Franz Conrad von Hotzendorf
フランツ・コンラート・フォン・ヘッツェンドルフ
生誕1852年11月11日
オーストリア帝国
ウィーン
死没 (1925-08-25) 1925年8月25日(72歳没)
ドイツ国
ヴュルテンベルク自由人民州
バード・メルゲントハイム
所属組織オーストリア=ハンガリー帝国陸軍
軍歴1871 - 1918
最終階級元帥
指揮参謀総長
第8歩兵師団長
戦闘第一次世界大戦
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フランツ・コンラート・フォン・ヘッツェンドルフ(Franz Conrad von Hotzendorf, 1852年11月11日1925年8月25日)は、オーストリア=ハンガリー帝国軍人第一次世界大戦勃発時に参謀総長を務めていた。彼自身の個人名は「フランツ」で、苗字は父方の姓「コンラート」とバイエルンに起源をもつ母方に由来する姓「フォン・ヘッツェンドルフ」から成る。
生涯
参謀総長まで地図を睨むコンラート(右)と参謀(1914年8月1日付「L'Illustration」)

オーストリア軍人の家系に、ウィーン郊外で生まれる。曾祖父は1815年に世襲貴族となった。

1871年にテレジア士官学校を卒業して少尉に任官し、第11歩兵大隊に配属。1877年に陸軍大学を卒業し参謀本部に配属される。配属先の第4歩兵師団で1878年のボスニア・ヘルツェゴビナ占領や1882年の南ダルマチア反乱鎮圧に従軍。1888年から1892年まで、少佐として陸軍大学で戦術教官を務める。1895年‐1899年、クラカウの第1皇帝歩兵連隊長。1899年、少将に昇進しトリエステの第55歩兵旅団長。1903年、中将としてインスブルックの第8歩兵師団長。軍部内では作戦家かつ実戦的・近代的教育法で知られ、皇位継承者フランツ・フェルディナント大公の推薦により1906年に参謀総長に任命された。

軍人としてはきわめて政治的だった彼は、皇位継承者と同様に二重帝国内でのハンガリーの立場を弱めたいと考えていたが、多民族の帝国を安定させるには、アウスグライヒよりもむしろセルビアを自帝国に併合し、三重帝国としてハンガリーの比重を下げるのが良いと考えていた。またダーウィン主義者でもあり、戦争とは国家生存のために行うものであり、国家とは戦争し拡張するために存在すると捉えていた。1910年、男爵に叙される。

イタリアやセルビアに対する方針から外相アロイス・フォン・エーレンタール伯爵と対立して1911年に参謀総長を更迭されたが、1912年のバルカン戦争で緊迫する情勢を受けて皇位継承者フランツ・フェルディナント大公の推挙により復職した。
第一次世界大戦

1914年6月にサラエヴォ事件でそのフランツ・フェルディナント大公がセルビア人青年に暗殺されたとき、コンラートは上に述べた信念から、セルビアに対する予防戦争の主唱者となった。セルビアに対する宣戦布告ののち総攻撃を企図するが、ロシア帝国の介入で事態が第一次世界大戦に発展すると、バルカンでの攻勢をあきらめ、部隊の多くをロシアの攻撃に備えてガリツィア(現在のウクライナ南西部)に配置せざるを得なくなった。

開戦後、ロシア軍の攻勢でガリツィアの失陥を招いたが、その責任を問われることはなかった。1914年冬から1915年春まで、ガリツィア内に包囲されたプシムイェシル要塞を救援するために、真冬にカルパツィア山脈で攻勢作戦を命じたが、天候不良、装備不良、地形不良、士気最低の損耗した軍隊は約80万人という大損害を出して、前進はたいしてできず、要塞を救援することは出来なかった。オーストリア=ハンガリー軍は、この損害から立ち直る事が出来ず、ドイツ軍の支援に強く依存するようになったが、コンラートは、ドイツ軍参謀総長のファルケンハインとは、全く意見が合わなかった。


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