フランチェスコ・ボッロミーニ
本名Francesco Castelli
誕生日 (1599-09-25) 1599年9月25日
出生地ビッソーネ
フランチェスコ・ボッロミーニ(伊: Francesco Borromini, 1599年9月25日 - 1667年8月3日)は、ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ、ピエトロ・ダ・コルトーナと並び、イタリアのバロックを代表する建築家である。本名はフランチェスコ・カステッリで、ボッロミーニは後に自ら名乗った母方の系統の姓である。 同じバロック建築でもベルニーニの古典主義的で端正な作風に比べ、サン・カルロ・アッレ・クワトロ・フォンターネ聖堂のように曲面を多用し、幻想的な効果を上げることを得意とし、後のバロック建築に与えた影響は大きい。 イタリアで活躍した建築家であるが、出身地スイスの第6次紙幣、第7次紙幣の100フランにその肖像が描かれていた。 ボッロミーニは、1599年9月25日ルガーノ湖のほとりのビッソーネに生まれた。父ジョヴァンニ・ドメニコ・カステッロ=ブルミーノは、ヴィスコンティ家に仕えた建築家であった。この父から初期の手ほどきを受ける。9歳ごろ、石工の修行のため、当時スペイン支配下にあったミラノへ移る。 20歳を過ぎたころ、親類を頼ってローマへ移り住む。サン・ピエトロ大聖堂の現場で石工として働くうちに腕を買われ、工事主任のカルロ・マデルノの助手となった。1629年1月30日にマデルノが亡くなると、サン・ピエトロ大聖堂の工事主任はベルニーニに引き継がれた。ベルニーニのもとで、ボッロミーニはバルダッキーノの完成を助けることになる。ボッロミーニは、パラッツォ・バルベリーニでもベルニーニの下で仕事をしている。しかし、2人の仲はうまくいかなくなる。ボッロミーニはベルニーニの構築上の知識に疑いを抱き、ベルニーニはボッロミーニの建築の作り方をよく思わなかった。 1634年にサン・カルロ・アッレ・クワトロ・フォンターネ聖堂の仕事を受け、ボッロミーニは独立する。以後、彼らが協力することはなく、ライバルとして対立感情をあらわにするようになった。ボッロミーニは決してパトロンに恵まれたとはいえなかったが、ローマ教皇インノケンティウス10世は非常にボッロミーニびいきであった。その庇護のもとで、ローマの司教座聖堂であるサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂の改築工事の仕事を引き受ける。ローマでの主要な仕事はすべて教皇庁につながっていた。インノケンティウス10世の没後アレクサンデル7世が教皇になると、ボッロミーニに教皇庁関係の大きな工事はなくなり、ベルニーニが建築家として活躍するようになった。 神経症に悩まされていたボッロミーニは、1667年8月3日剣の上に倒れこむようにして衝動的に自殺し、67年の生涯を終えた。 1999年に生誕400年記念碑として生まれ故郷ルガーノ湖畔に、同郷出身の建築家マリオ・ボッタによるサン・カルロ・アッレ・クワトロ・フォンターネ聖堂の木造模型が設置された(2003年解体)。マリオ・ボッタによる生誕400年記念碑(1999年)。ボッロミーニのサン・カルロ・アッレ・クワトロ・フォンターネ聖堂のデッサンを基にしたもの。 メアリー・マッカーシー(1912-1989)の小説『アメリカの鳥』(1971)の主人公、アメリカ人青年ピーターは、ローマ旅行中、投宿したホテルが「ボロミーニの縄張りにあった」ことを「何かのしるしと考えて、この巨匠の作品を全部見ると決め、着々と実行に移してい(く)」。彼は「ボロミーニを見るとき、空間や量感について考えるのではなく、子供の頃におとぎ話から感じとったのと同じような感覚、つまり、世界はたえまなく形を変えるという感覚を味わった」[1]。 激情にかられやすく嫉妬深かったボッロミーニは典型的な憂鬱質で、気難しい性格だった。また、自らの図面を「子ども」と呼び何よりも大事にしていた。自らのアイディアの盗用を異常なほど警戒しており、多くの図面を生前に焼き捨てている。同時代の伝記作家が伝えるボッロミーニの肖像は、背が高く手足も大きく筋骨隆々としており、髪は黒く、いつも古めかしいスペイン風の黒いローブを着ていたというものである。生涯を独身で過ごした。
概要
生涯
人と性格
建築作品
サン・カルロ・アッレ・クワトロ・フォンターネ聖堂(1638-41、正面1665-67、ローマ)[2]
サンティーヴォ・デッラ・サピエンツァ聖堂(1642-50、ローマ)
サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂改修(1646-50、ローマ) ただし正面ファサードは18世紀のもの
サンタニェーゼ聖堂(1653-57、ローマ)
脚注[脚注の使い方]^ メアリー・マッカーシー『アメリカの鳥』中野恵津子訳(池澤夏樹=個人編集 世界文学全集)河出書房新社、2009(ISBN 978-4-309-70956-7)、327・329頁。
^ 新建築社『NHK 夢の美術館 世界の名建築100選』新建築社、2008年、104頁。.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISBN 978-4-7869-0219-2。
参考文献
磯崎新、篠山紀信、横山正『バロックの真珠 サン・カルロ・アッレ・クァトロ・フォンターネ聖堂』六耀社、1983年。
長尾重武『ローマ――バロックの劇場都市』丸善、1993年。
山田智三郎責任編集『バロック・ロココ』世界の建築7、学習研究社、1982年。
関連文献
G・C・アルガン 『ボッロミーニ』、長谷川正允訳、SD選書217:鹿島出版会、1992年
『図説世界建築史11 バロック建築』、本の友社、2001年
クリスチャン・ノルベルグ=シュルツ、加藤邦男訳
関連項目
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