フランチェスコ・グリフォ
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フランチェスコ・グリフォ(Francesco Griffo、1450年?1518年)は、15世紀イタリア活字製作者(活字父型彫刻師)、書体デザイナーである。フランチェスコ・ダ・ボローニャとも呼ばれる。主にアルドゥス・マヌティウスアルド印刷所で働き、最初のイタリック体をはじめとする同印刷所の重要な活字書体の大部分を製作した。
生涯
出生からパドヴァ時代

グリフォは、1450年ごろ金細工師チェーザレの息子としてボローニャに生まれた[1][2]金細工師として有能な活字鋳造者であったグリフォは早いうちに故郷を離れ、遅くとも1476年6月にはパドヴァに住んでいた。彼はここで1474年から1480年にかけて、雇い主ピエール・モーファー(英語版)のために2種類の活字父型をデザインし彫ったとされる。これらの活字は1470年のニコラ・ジャンソンの活字をモデルにしていた[2]
ヴェネツィア時代De Aetna(1496年)

グリフォは1470年代中ごろから、ヴェネツィアとの仕事上のつながりを持っていたと考えられる。15世紀の印刷・出版史において極めて重要な場所であるこの街の、高度な専門性や激しい出版競争の最中においても、グリフォの経験と技術は際立っていた。1490年代初頭まで彼がヴェネツィアのどの印刷所で働いていたかはわかっていないが、1475年にフランクフルトの商人ヨハン・ラウフファス(Johan Rauchfass)がジャンソンのローマン体を複製するために雇った「Franciscus de Bononia quondam Caesaris aurifex」(「かつてチェーザレの金細工師だったフランチェスコ・ダ・ボローニャ」の意)の正体がグリフォであったことは確かである[2]。1480年代には、ヴェネツィア有数の出版人であったグレゴーリオ兄弟(英語版)に2種類のローマン体活字を提供しており[1]、R.オロッコはこの活字がニコラ・ジャンソンのローマン体に酷似しているとする[3]。その場合、1480年に死去したジャンソンから活字関係の機材を引き継いでいたアーゾラのアンドレア・トッレザーニのもとをグリフォが訪れていた可能性もある。

その後グリフォは、1494年から出版活動を始めていたアルドゥス・マヌティウスアルド印刷所に入り、最初のイタリック体をはじめとする同印刷所の重要な書体の大部分、ローマン体活字、ギリシア語活字、ヘブライ語活字を製作した。マヌティウスは1501年に出版したウェルギリウス牧歌』の序文において、「ギリシア語とラテン語の活字を彫るフランチェスコ・ダ・ボローニャの高い技術力」とグリフォの仕事を公に認め、賞賛している[2]。しかし同年、マヌティウスがヴェネツィア共和国元老院の認可を得て、グリフォの彫ったイタリック体の印刷とギリシア語著作の出版を10年間独占する特権を得たことで、グリフォとの不和が生じた。自らの活字をアルド印刷所以外の印刷所にも提供していたグリフォは、この出来事によってヴェネツィア国内の出版業者や印刷業者との交渉力を失うこととなったためである。自分が搾取されたことに失望したグリフォは、1502年の冬にヴェネツィアを離れた。
ファーノ時代から晩年

グリフォは、彼と同様にアルドゥス・マヌティウスと対立してヴェネツィアを去り、ウルビーノ公国ファーノにおいて一族でヘブライ語の印刷会社を経営していたゲルショム・ソンチーノ(英語版)の下で働くことになる[2]。ソンチーノがファーノに滞在していた1502年から1507年にかけて、グリフォは第2のイタリック体活字を製作する。これはソンチーノが人文主義者のロレンツォ・アステミオ(英語版)とともに計画していた八折り判のシリーズのために製作したもので、合字を減らしたデザインであった。その後1511年から1513年にかけては、フォソンブローネのオッタヴィアーノ・ペトルッチ(英語版)やヴェネツィアのBernardino Giolito de Ferrari(Stagninoとして知られる)のもとで働いていたが、1512年にはペルージャに定住した[2][4]

1516年の秋にはグリフォはボローニャに戻り、そこで出版業を始めた。彼は持ち前の活字製作技術を活かして、ラテン語と現地語の八折り判テキストを次々と出版していった。マヌティウスやソンチーノのおかげでヨーロッパ中の読者に知られていたこれらの本を、グリフォは非常に小さなイタリック体を用いて出版したのである[2]。しかし1518年、グリフォは義理の息子(娘カテリーナの夫であるクリストフォロ・デ・リシア)を鉄の棒で殴り殺したという容疑で起訴された。1899年にボローニャ国立公文書館で発見されたこの裁判に関する文書が、歴史上残っているグリフォの最後の記録である。この裁判でグリフォがどのような判決を受けたかを示す資料は残っていないが、当時のボローニャで殺人罪は死刑であったため、その後彼は処刑されたものと推測されている[5][6][7]


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