フランソワ=ジョセフ・ゴセック
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フランソワ=ジョゼフ・ゴセック
Francois-Joseph Gossec
アントワーヌ・ベスティエ
基本情報
生誕 (1734-01-17) 1734年1月17日
出身地 オーストリア領ネーデルラントエノー州ヴェルニー村
死没 (1829-02-16) 1829年2月16日(95歳没)
フランス王国セーヌ県パシー
ジャンル転換期?古典派
職業指揮者・作曲家
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フランソワ=ジョゼフ・ゴセック(Francois-Joseph Gossec,1734年1月17日 - 1829年2月16日)は、フランスで活躍したベルギー出身の作曲家[1]指揮者。長い生涯の間に、バロック音楽の終焉から初期ロマン派音楽の勃興までに遭遇した。

現在では一般的にヴァイオリンのための愛らしい小品「ガヴォット」1曲によって知られている。彼は交響曲の大家で30曲近くを書いた。パリ音楽院創立の際、作曲の分野における教授として招かれた。共和政・帝政時代の革命歌の作曲家としても歴史的に名を残している。
生涯と作品

オーストリア領ネーデルラント(現在のベルギー)の中にあったフランスの飛び地であるエノー州のヴェルニー村(Vergnies)の小さな農家に生まれる。幼児期から音楽への強い志向を見せ、アントウェルペンの聖歌隊員に加わる。1751年パリに行き、ジャン=フィリップ・ラモーに見出される。ラモーの裕福なパトロン、ラ・ポプリニエールの私設楽団の指揮者に任命され、フランスで器楽曲の研究をやり直すべく決心する。

1754年に最初の交響曲が上演される。ゴセックはコンデ公オーケストラ指揮者として、いくつかのオペラや自作を上演する。目覚しい成功によってフランス音楽に自らの影響力を見せ付けた。1760年3月に、コンデ公の妻シャルロット・ド・ロアンが亡くなると、その追悼のために《レクィエム》を作曲し、同年5月に初演した。この曲は演奏に1時間半を要する大作で、これによってゴセックは、一夜にして有名人の仲間入りをした。この作品を称賛したモーツァルトは、1778年パリ滞在中にゴセックを訪ねて、会見記を父親に書き送った。曰く、「とてもいい友人になりました。とても素っ気ない人でしたが。」

ゴセックは1770年に「コンセール・デ・ザマトゥールConcert des Amateurs 」(愛好家のための合奏団の意)を設立し、1773年にはシモン・ルデュックやピエール・ガヴィニエスとともに「コンセール・スピリテュエルConcert Spirituel 」を再編成した。この演奏会のシリーズでゴセックは、自作の交響曲だけでなく、同時代人、とりわけハイドンの作品を指揮したので、ハイドン作品は次第にパリで人気となり、ついにはゴセックの交響楽を凌ぐに至った。

1780年代にゴセックは交響曲の作品数を減らしてゆき、オペラに集中するようになる。1784年に「エコール・ドゥ・シャンEcole de Chant 」(唱歌伝道所の意)を設立、フランス革命の際には、エティエンヌ・メユールとともに救国軍の楽隊指揮者を務め、1795年パリ音楽院が設立されると、ルイジ・ケルビーニと、そしてまたもやメユールとともに、視学官に任命された。フランス学士院の最初の会員に選ばれるとともに、レジオンドヌール勲章を授与されている。

1815年ワーテルローの戦いナポレオンが敗北すると、ルイ18世によってパリ音楽院はしばらく閉鎖に追い込まれ、81歳のゴセックも引退を余儀なくされた。音楽院近くで年金暮らしを続けながら、最後の作品となる3曲目の《テ・デウム》の作曲に1817年まで取り組んだ。

しかし一方でフランスの外ではほとんど無名であり、おびただしい数の作品は、宗教音楽も世俗音楽もともに、同時代の、より有名な作曲家の陰に隠れていった。

ゴセックはパリ郊外のパシー(Passy)に没した。葬儀には、かつての同僚ケルビーニも駆けつけた。墓はペール・ラシェーズ墓地にあり、グレトリと、かつての盟友メユールのそばに葬られた。
作品

ゴセックは、ロマン派音楽の時代における、オーケストラの拡張や上演における起用人員の膨張傾向、ステージ上・ステージ外における空間配置へのこだわりなどを先取りしている。


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