フランソワーズ・サガン
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フランソワーズ・サガン
Francoise Sagan

誕生フランソワーズ・コワレ
Francoise Quoirez
1935年6月21日
フランス共和国ロット県カジャルク
死没 (2004-09-24) 2004年9月24日(69歳没)
フランスカルヴァドス県オンフルール
職業作家小説家劇作家脚本家映画監督作詞家
言語フランス語
国籍 フランス
最終学歴ソルボンヌ大学
活動期間1954年 - 1996年
代表作『悲しみよこんにちは』(1954年
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フランソワーズ・サガン(Francoise Sagan、1935年6月21日 - 2004年9月24日)は、フランス小説家脚本家。本名はフランソワーズ・コワレ(Francoise Quoirez)。ペンネームは、マルセル・プルーストの小説『失われた時を求めて』の登場人物 「Princesse de Sagan」から取られた。
略歴

ロット県フィジャック近郊カジャルク(フランス語版)で生まれた。父親は大手電気会社アルカテル・ルーセントの前身(Compagnie Generale d'Electricite=CGE)の重役、母親は地主というブルジョワ家庭で動物に囲まれて育った。ニックネームは「キキ」(Kiki)だった。一家は第二次世界大戦の間(1939年-1945年)、初期はリヨン、それからドーフィネ地方ヴェルコール(fr)に疎開する[1]

戦後、家族はパリ17区マルゼルブ大通り(fr)167番地の自宅に戻った[2]。キキは学校生活に馴染めず、17区内の私立ルイーズ=ド=ベティニ校(Cours Louise-de-Bettignies)を3か月も経たずに退学になり8区の私立クヴァン・デ・ゾワゾー女子寄宿学校[注釈 1]に入れられ、さらにドーフィネ地方グルノーブル近郊のカトリック系学校3校で転校を繰り返した頃は「非常に良い子」で過ごした[3][4][5][6]。その後パリに戻ると8区の私立アトメール校(fr)在学中、2度目の受験でバカロレアに合格すると1952年秋からソルボンヌ大学に入学。しかし在籍中は無関心な学生で卒業はしなかったものの[7]、この頃から処女作の『悲しみよこんにちは』を書き始めた[8]

当時の潮流では女性は結婚するのが当たり前であったが、書くことができなければ、「医者になりたかった(中略)実際には、勉学や研究を行う勇気はなかったでしょうし、書く以外に何もない(後略)」と述べている[9]

大学在学中、処女作の原稿を書きつつ、グランゼコール準備級試験を受けるが不合格に終わった[10]

1953年の夏以降、サガンの親友フロランス・マルロー (fr[注釈 2]) は母クララ・マルロー (fr) にサガンの原稿を見せたが、作家だった母はろくに読まないままドゥノエル出版社 (fr) 総務部長職にあったフランソワ・ヌリスィエ (fr) に原稿を渡したものの、同社は目もくれなかったという[11]。作家で映画脚本家のコレット・オドリー (fr) には結末の書き直しを提案された上で出版社3社を紹介してもらい、1954年1月17日、最終的にジュリアール社 (fr) での出版が決定した[12]

1954年5月、選考委員にジャン・ポーランジョルジュ・バタイユロジェ・カイヨワマルセル・アルランらお歴々が揃った批評家賞「プリ・デ・クリティック (Prix des Critiques)」を受賞し、これがキッカケでデビュー作『悲しみよこんにちは』は書店店頭で売り上げを大きく伸ばす[14]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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