フランソワ・ファベール
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フランソワ・ファベール

フランソワ・ファベール(Francois Faber、1887年1月26日-1915年5月9日)は、フランス・カランシー出身で、ルクセンブルク国籍の名自転車競技選手。フランス国籍以外の選手として、初めてツール・ド・フランスで総合優勝を果たした。
経歴

フランス生まれながらも、父親がルクセンブルク人だったこともあり、後にルクセンブルク国籍を取得。1906年ツール・ド・フランスに出場するも途中棄権。翌1907年ツール・ド・フランスでは総合6位に入った。1908年のツール・ド・フランスでは、山岳ステージの第2、第3ステージを制して、史上初の総合連覇を達成した、ルシアン・プティブルトンに次いで総合2位となった。また、同年のジロ・ディ・ロンバルディアで優勝。

1909年ツール・ド・フランス。第2ステージからアルプス越えステージを含む第6ステージまで5連続区間優勝を果たし、第10ステージも制覇して、最終的にギュスタヴ・ガリグーに20ポイントの差をつけ、ルクセンブルク国籍選手として初のツール・ド・フランス総合優勝を果たした。さらに、この年のパリ?ツールを制覇した。

1910年ツール・ド・フランスでは区間3勝を果たし、オクタヴ・ラピーズに次いで総合2位。また、パリ?ツールを連覇。1911年、ボルドー?パリを制覇。再び時間制に総合成績争いが改められた1913年ツール・ド・フランスでは区間2勝を挙げ総合5位。さらにこの年のパリ?ルーベを制覇した。

1914年ツール・ド・フランスでは区間2勝を挙げて総合9位。しかしこの年、第一次世界大戦が勃発。ファベールはフランス外人部隊の召集を受け、自転車選手としてピリオドを打つとともに、二度と選手として復帰することはなかった。

1915年5月9日、ファベールは死亡。死因については、丁度この日、ファベールに娘が誕生したという電報が入り、小躍りして喜んでいたところ、ドイツ人兵にその光景を見つけられて射殺されたという説、あるいは、第二次アルトワの戦いで戦死した、瀕死の味方を介抱している所を敵に頭部を撃たれた[1]等の説がある。
脚注^ 『まいにち ツール・ド・フランス 第7ステージ』(NHK BS1。2014年7月12日初回放送)より。ジャック・オジャンドル(ツール・ド・フランス史研究家)のインタビューによる。

外部リンク



フランソワ・ファベール - サイクリングアーカイヴス(英語)










ツール・ド・フランス総合優勝者
1903?1919

1903 モリス・ガラン

1904 アンリ・コルネ

1905 ルイ・トゥルスリエ

1906 ルネ・ポティエ

1907?08 ルシアン・プティブルトン

1909 フランソワ・ファベール

1910 オクタヴ・ラピーズ

1911 ギュスタヴ・ガリグー

1912 オディル・ドフレイエ

1913?14 フィリップ・ティス

1915?18: 第一次世界大戦

1919 フィルマン・ランボー

1920?1939
1920 フィリップ・ティス

1921 レオン・シウール

1922 フィルマン・ランボー

1923 アンリ・ペリシエ

1924?25 オッタビオ・ボテッキア

1926 ルシアン・ビュイス

1927?28 ニコラ・フランツ

1929 モリス・デワール

1930 アンドレ・ルデュック

1931 アントナン・マーニュ

1932 アンドレ・ルデュック

1933 ジョルジュ・スペシェ

1934 アントナン・マーニュ

1935 ロマン・マース

1936 シルヴェール・マース

1937 ロジェ・ラペビー

1938 ジーノ・バルタリ

1939 シルヴェール・マース

1940?1959
1940?46: 第二次世界大戦

1947 ジャン・ロビック

1948 ジーノ・バルタリ


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