フランソワ・ド・グラス
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フランソワ・ジョゼフ・ポール・ド・グラス
Francois Joseph Paul de Grasse
ジャン=バティスト・モーゼース(英語版)による肖像画、1843年。
生誕1722年9月13日
フランス王国アルプ=マリティーム県ル・バール=シュル=ルー
死没 (1788-01-14) 1788年1月14日(65歳没)
フランス王国イヴリーヌ県、ティリー(英語版)
所属組織フランス海軍
軍歴1734年 ? 1784年
最終階級海軍大将
戦闘

オーストリア継承戦争

トゥーロンの海戦

第一次フィニステレ岬の海戦


アメリカ独立戦争

ウェサン島の海戦

グレナダの海戦

ドミニカ侵攻

セント・ルシアの海戦(英語版)

マルティニーク島の海戦

フォール・ロワイヤルの海戦(英語版)

チェサピーク湾の海戦

ヨークタウンの戦い

セント・キッツの海戦(英語版)

セインツの海戦


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グラス・ティリー侯爵およびグラス伯爵フランソワ・ジョゼフ・ポール(: Francois Joseph Paul, marquis de Grasse Tilly, comte de Grasse, 1722年 - 1788年1月14日)は、フランス侯爵フランス海軍提督である。チェサピーク湾の海戦の勝利により、アメリカ独立に決定的な役割を果たしたが、セインツの海戦の敗北により、フランスの完全な勝利を勝ち取ることはできなかった。
生涯
生い立ち

グラスは、1722年に現在のアルプ=マリティーム県ル・バール=シュル=ルーで生まれた[1]。1734年にマルタ騎士団の船隊に従軍、1740年にフランス王国海軍に転じた[1]
アメリカ独立戦争

1776年アメリカ独立戦争がイギリスとの間に始まると、フランス海軍はアメリカ側を応援することになった。1船隊の指揮官となっていたド・グラスは、ルイ・ギルエ・ドルヴィリュー(英語版)の下で1778年7月23日から27日の第一次ウェサン島の海戦に参加した。1779年カリブ海でデスタン伯爵(英語版)の艦隊に合流し、1780年ドミニカ侵攻とセント・ルシアの海戦(英語版)、1781年のイギリスによるトバゴ侵攻(英語版)で戦功を挙げた[1]。ド・グラスはグレナダの占領に貢献し、リュック・ウルバン・デュ・ブエキシック・ド・ギシャン(英語版)とイギリス海軍ジョージ・ロドニーとの間で争われたマルティニーク諸島の3度の戦いに参加した。

ド・グラスはジョージ・ワシントン将軍とロシャンボー将軍を応援するため、3,000名の将兵を載せてセントドミニク島を出港した。ド・グラスは援軍をバージニアに降ろした後、1781年9月にイギリス艦隊とチェサピーク湾の海戦を行い、イギリス艦隊を撤退させた。その後、ヨークタウンに至る海域を封鎖したためイギリス軍は孤立し、10月19日にはイギリス軍のチャールズ・コーンウォリス将軍が降伏した。アメリカ合衆国の独立がなった。

その後、ド・グラスはセント・キッツ島の海戦ではサミュエル・フッド提督に敗れた[1]。さらに1782年4月セインツの海戦ジョージ・ロドニー提督に敗れ捕虜となった[1]。数ヶ月後帰国を許され、『正当化の備忘録』(Memoire justificatif)を出版したのち、1784年に軍法会議で無罪判決を受けた[1]
死去

1788年1月、パリで死去した[1]

ド・グラスの息子アレクサンドル・フランソワ・オーギュスト・ド・グラス(英語版)は1840年に『未公開文書によるド・グラス提督の伝記』(Notice biographique sur l'amiral comte de Grasse d'apres les documents inedits)を出版した[1]
記念
記念碑

ド・グラス提督がアメリカ合衆国を助けイギリスからの独立を勝ち取ったことを記念する碑が、バージニア州バージニアビーチ、ストーリー砦のヘンリー岬記念公園にある。碑は国立公園局の植民地国立歴史公園によって管理されている。
艦船名

フランス海軍にはド・グラスに因んで名付けられた艦船が2隻ある。

巡洋艦 ド・グラース (De Grasse)(1939 - 1974)

トゥールヴィル級駆逐艦 ド・グラース (De Grasse)

アメリカ海軍には3隻ある。

スプルーアンス級駆逐艦 コント・ド・グラス (USS Comte de Grasse)(1978 - 1998)

クレーター級輸送船 ド・グラス (USS De Grasse)(1943 - 1946)

ヨット ド・グラス (1918)

1920年代には、フランスの中型外洋商船ド・グラスがあった。
出典^ a b c d e f g h .mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Grasse, Francois Joseph Paul, Comte de" . Encyclopadia Britannica (英語). Vol. 12 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 369.


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