フランソワ・ド・ギーズ
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フランソワ・ド・ギーズ
Francois de Guise
第2代ギーズ公

在位1550年 - 1563年

出生 (1519-02-17) 1519年2月17日
ロレーヌ公国バル=ル=デュック
死去 (1563-02-24) 1563年2月24日(44歳没)
フランス王国、コルニー城
埋葬 フランス王国、ジョアンヴィル
配偶者アンナ・デステ
子女一覧参照
家名ギーズ家
父親ギーズ公クロード
母親アントワネット・ド・ブルボン=ヴァンドーム
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フランソワ・ド・ロレーヌ(Francois de Lorraine)またはフランソワ(1世)・ド・ギーズ(Francois (Ier) de Guise, 1519年2月17日 - 1563年2月24日)は、フランスの貴族・軍人でギーズ公、ジョアンヴィル公、オマール公。渾名はバラフレ(balafre:傷跡のあるという意味)であった。ユグノー戦争で活躍したが、プロテスタント暗殺された。スコットランドジェームズ5世マリーは姉[1]、ロレーヌ枢機卿シャルル、オマール公クロード2世、エルブフ侯ルネ2世は弟[1]。伯父はロレーヌ公アントワーヌ、祖父はロレーヌ公ルネ2世、ルネ・ダンジューの玄孫、ルイ2世・ダンジューの来孫、ルイ1世・ダンジューの昆孫、フランス王ジャン2世の仍孫、フランス王フィリップ6世の雲孫である。敵対関係にあったユグノーの首領コンデ公ルイ1世は母方の従弟である。
生涯

ギーズ公クロードとヴァンドーム伯フランソワの娘アントワネットの長男としてバル=ル=デュックで生まれた[1]

1545年ブローニュ包囲に参戦して負傷し、渾名の元となった[2]1552年には神聖ローマ皇帝カール5世によるメス包囲で防衛に成功するが、1554年のレンティの戦いで帝国軍に打ち負かされた。順調な出世を遂げるうち、1557年にはローマ教皇パウルス4世の援助のため軍を率いてイタリアへ遠征した。しかし、すぐにフランスに呼び戻され、1558年1月には、200年以上にわたってイングランドに支配されてきたカレーの奪還にも成功した(カレー包囲戦[3]

1559年7月、フランソワ2世が即位してから約1年が絶頂期であった。王妃は姪のスコットランド女王メアリー・ステュアート(姉マリーとスコットランド王ジェームズ5世の一人娘)であるため、ギーズ家ヴァロワ家と密接につながったのである。外戚として弟のロレーヌ枢機卿と共に御しやすいフランソワ2世を動かして実権を握ったが、1560年12月にフランソワ2世は病死、数ヶ月もしないうちに彼の影響力は失せ、弟のシャルル9世が即位すると私領に引退した。

1562年、ユグノー戦争がおこると、摂政カトリーヌ・ド・メディシスは当初ユグノーに好意的であったため、カトリック派の劣勢を挽回するためフランソワは旧敵アンヌ・ド・モンモランシーやジャック・ド・サンタンドレらと手を組み、カトリック派の首領として転戦する[4]スペインオーストリアにすり寄る彼らの行動に危機感を抱いたユグノーらにより、1563年2月18日にフランソワは襲撃されて重傷を負い、6日後にコルニー城で死亡した[5](黒幕はプロテスタントの首領コリニー提督とされている)。「ギーズ公フランソワ暗殺事件(英語版)」を参照
子女

1548年4月29日サン=ジェルマン=アン=レーアンナ・デステエステ家フェラーラエルコレ2世・デステルネ・ド・フランスの娘[6])と結婚[7]。7子をもうけた。

アンリ(1550年 - 1588年) - ギーズ公[1]

カトリーヌ(1552年 - 1596年) - ブルボン家の支族モンパンシエ公ルイ3世[1]


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