フランソワ・クープラン
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フランソワ・クープラン
Francois Couperin
作者不明のフランソワ・クープランの肖像、ヴェルサイユ宮殿所蔵
基本情報
生誕1668年11月10日
フランス王国 パリ
死没 (1733-09-11) 1733年9月11日(64歳没)
フランス王国 パリ
ジャンルバロック音楽
職業作曲家
フランソワ・クープランの肖像(1735年)アンドレ・ブイの原画に基づくジャン=シャルル・フリパールの銅版画。.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ポータル クラシック音楽

フランソワ・クープラン(Francois Couperin 発音例, 1668年11月10日 パリ - 1733年9月11日 同地)は、バロック時代フランス作曲家。多くの音楽家を輩出したクープラン家の中でも特に有名な人物であり、大クープラン (Couperin le Grand) として知られる[1]

クープランの作品の中で主要な位置を占めるのは4巻のクラヴサン曲集であり、約220曲の小品が27のオルドル (ordre) と称する組曲を構成している。彼のクラヴサン曲はアルマンドクーラントといった組曲で一般的な舞曲よりも、優雅で象徴的な題名を持つ描写的な作品が多くを占めている[2]
生涯

フランソワ・クープランの父親のシャルル・クープラン (1638-1679) はルイ・クープランの弟であり[3]、1661年からはルイの後任としてパリのサン・ジェルヴェ教会のオルガニストを務めていた。1662年2月20日にシャルルは理髪師の娘マリ・ゲランと結婚し、1668年11月10日にフランソワ・クープランが生まれた。

彼は当然父親から音楽教育を受けていたと考えられるが、1679年、彼が10才の時にシャルルは亡くなる。サン・ジェルヴェ教会のオルガニストとなるにはクープランは未だ幼すぎたが、教会評議会は彼が18才の誕生日を迎えた時に父親の地位を引き継ぐことに同意し、それまではミシェル=リシャール・ドラランドが代理を務めることになった。クープランの教育はサン・ジャック・ド・ラ・ブシュリー教会のオルガニストで国王のオルガニスト (organiste du roi) でもあったジャック・トムラン (en:Jacques Thomelin) が引き受けた。クープランは約束の日が来るのを待たずに実質的にサン・ジェルヴェ教会のオルガニストを務めるようになり、1685年11月1日には教会評議会はクープランに対する報酬の支払いを決定している。

1689年にクープランはマリ=アンヌ・アッソーと結婚、1690年には最初の出版作品である2つのオルガン・ミサからなるオルガン曲集を出版し、1693年にはルイ14世によってトムランの後任に選ばれた。国王のオルガニストとして宮廷との結びつきを強めたクープランは、教師として多くの王家の人々にクラヴサンを教え、王室楽団ではジャン・バティスト・アンリ・ダングルベール(ジャン=アンリ・ダングルベールの子)の代役として常任クラヴサン奏者を務めた[4]。さらに宮廷作曲家としても活動するようになり、室内楽だけでなく王室礼拝堂用の宗教音楽も手がけた。国王の命を受けた3組のヴァーセット集が1703年から1705年にかけて出版されている。手稿譜で伝わる多数のモテットは1690年代後半に書かれたものと考えられる。この頃からクープランはイタリア風のトリオ・ソナタの作曲に取り組みはじめており、最初のうちはそれらをイタリア風の偽名で発表していた。

1713年に出版された『クラヴサン曲集第1巻』に収録されている作品の内いくつかは、出版される以前から手稿譜で出回っていたことが確実である。クリストフ・バラールの『クラヴサン曲選集』 Pieces choisies pour le clavecin de differents auteurs (1707) にはクープランの作品のいくつかが作者を記さず収録されている。『クラヴサン曲集第1巻』はそのような手持ちの作品をまとめた曲集であると考えられ、アルマンドクーラントサラバンドジーグという組曲における舞曲の定型の配列を守る傾向があるものの、他に多数の描写的な標題を持つ作品が収録されている。クープランは序文で「これらの楽曲を作曲する際、私の頭のなかにはさまざまなおりに得た対象があった。私が何を考えたかを標題が示しているので、それ以上に説明をする必要はない。」[5]と記しているが、クープランのクラヴサン曲の標題は現在では意味のよくわからないものも多い。

1716年にはクラヴサン演奏論である『クラヴサン奏法』 (L'art de toucher le clavecin) を出版した。これはごく短い著作であるが、内容は雑然としており、演奏の際の姿勢、幼い生徒への教授法、運指法と装飾音の解説、練習用の音階、イタリア音楽とフランス音楽の違い、自身のクラヴサン曲集の演奏に関するアドバイス、演奏会で伴奏者が注目されないことについての愚痴、などが思いつくままに綴られている。またクラヴサンにふさわしい音楽について実例を示すためのアルマンド1曲と、自身のクラヴサン曲集で使用されている調によるプレリュード8曲が収録されている。運指法の記述からはクープランは音階を演奏する際に中指で人差し指または薬指をまたぐ古風な方法を用いていたことがわかる。一方で替え指を使ったり、重音の三度ではレガートな指使いを用いるなど新しい方法を支持してもいる。1717年には『クラヴサン奏法』の第2版が出版され、おそらく同じ年に『クラヴサン曲集第2巻』が出版された[6]。第2巻の組曲は(第8オルドルを例外として)組曲の定型はほとんど放棄されており、描写的な標題を持つ作品の比重が増している。クープランの重要な宗教声楽作品である『ルソン・ド・テネブレ』 (Lecons de tenebres) もこの頃に出版されている。全部で9曲が作曲されたと考えられるが、現存するのは3曲のみである。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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