フランス領インドシナ・ピアストル
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フランス領インドシナ・ピアストル
仏領インドシナ・ピアストル硬貨(1885年)
中央銀行インドシナ銀行
使用
国・地域 フランス領インドシナ
補助単位
 .mw-parser-output .frac{white-space:nowrap}.mw-parser-output .frac .num,.mw-parser-output .frac .den{font-size:80%;line-height:0;vertical-align:super}.mw-parser-output .frac .den{vertical-align:sub}.mw-parser-output .sr-only{border:0;clip:rect(0,0,0,0);height:1px;margin:-1px;overflow:hidden;padding:0;position:absolute;width:1px}1⁄100サンチーム(centieme)
 1⁄500サペック(sapeque)
通貨記号p
硬貨?, ?, 1, 5, 10, 20, 50サンチーム, 1ピアストル
紙幣10, 20, 50サンチーム, 1, 5, 10, 20, 50, 100, 200, 500ピアストル
このinfoboxは、通貨が変更される直前の値を示している。

フランス領インドシナ・ピアストル(フランス語:Piastre indochinoise)は、フランス領インドシナ通貨単位。フランス語で「piastre de commerce(通商ピアストル)」とも呼ばれ、1885年から1952年の間、大日本帝国により占領されていた時期を除きフランスの支配下にあったインドシナ半島東部地域で使用された。日本語では仏印ピアストルなどとも呼ばれる。

補助通貨単位はサンチーム (centiemes) で、1ピアストル=100サンチーム。さらにその下の補助単位として、1サンチーム=5サペック(sapeques)とされた。
歴史

フランス帝国がこの地域を支配する以前は、様々な貨幣が使用されていた。19世紀後半には、現在のベトナムにあたる地域では中国の一部地域で使用されていた銭貨が使用されていた。他にも龍紋の描かれた銀貨も流通しており、これは当時その地域に広く知られていたスペイン銀貨やメキシコ銀貨などの洋銀に似せて造られていたと考えられており、しかしながら龍紋銀貨は含有銀分が少なく洋銀に対し価値は低かった。現在のカンボジアラオスにあたる地域では、シャム(現在のタイ)の貨幣が流通しており、カンボジアもシャム・ティカル(シャムの通貨)の一種が流通していた。

フランス帝国が1858年に阮朝に仕掛けたコーチシナ戦争に勝利し、1862年にメコン川デルタサイゴン周辺のコーチシナ、現在のベトナム南部からインドシナ帝国の支配を開始。この帝国はシャム王国の属領であったカンボジアなどを含む地域へ急速に勢力を拡大した。1875年にフランスはカンボジアにカンボジア・フランを導入した。このフラン貨は1875年から1885年の間ベルギーにて鋳造されていたが、どれも1860年銘とされていた。フランスはまた補助単位サンチームも1870年代後半にコーチシナに導入したが、実際にはフランス・フランに対してではなく、メキシコ・ドル銀貨に対する補助単位となっていた。

1884年、仏領インドシナ帝国はトンキン戦争を経てさらに安南(フランス保護領アンナン)やトンキン(フランス保護領トンキン)に支配を広げ、1885年には新しい銀貨である「通商ピアストル(piastre de commerce)」を導入、地域の財政的安定を目指しインドシナ全域で流通を開始した。このピアストルは文字通り当時のメキシコ・ペソと同価だった。そのためピアストルはスペイン・ペソがマニラ・ガレオンによりメキシコから東洋に持ち込まれた直系の子孫と言われることもある。当初1ピアストル=純銀24.4935グラムの銀本位制とされ、1895年に1ピアストル=24.3グラムに改鋳された。

仏領インドシナは銀本位制を維持した最後の地域の一つとなった。仏領インドシナ・ピアストルは1920年まで銀本位制を維持していたが、第一次大戦後の銀の高騰を受けて、金本位制を元に変動相場制によるフランス・フランへのペッグ制を導入した。銀本位性はその後1921年に復活し1930年まで維持したが、その後フランス・フランに再びペッグし、1ピアストル=10フランとされた。第二次大戦中、大日本帝国の占領下には1日本円=0.976ピアストルの交換レートで運営され、戦後は戦前のフランへのペッグが再開された。しかし1945年12月のフランス・フラン切り下げの影響を避けるため、1ピアストル=17フランにペッグが変更された。実際にはインドシナ地域ではピアストルの実質価値は10フラン前後を維持したので、ピアストルをフランに両替すると大きな富を得られる機会が起こり、組織的犯罪も活発化し1950年ごろから「ピアストル事件」と言われる出来事が起こった。

1946年に北ベトナムでは北ベトナム・ドンが仏領インドシナ・ピアストルと同価で導入され、続いて1952年にはラオス・キープ、1953年にはカンボジア・リエル南ベトナム・ドンが仏領インドシナ・ピアストルと同価で導入された。当初は紙幣にはそれぞれの地域通貨名とピアストルとが併記されていたが、硬貨は当初から国ごとの通貨名のみが記載された。これらの貨幣はピアストルと併行し流通した。1953年には1ピアストル=10フランのペッグ制に戻された。南ベトナムとカンボジアでは両通貨名が併記された紙幣は1955年まで使用され、ラオスでは1957年まで使用された。
硬貨
第二次大戦前に発行された硬貨

硬貨はまず1880年に発行され、その後1883年、1885年と続いた。1885年には1サンチーム貨、10、20、50サンチーム銀貨と1ピアストル銀貨が導入された。1887年には穴のある2サペック銅貨導入。1895年には銀含有量が減少。1896年から1サンチームも穴銭となり、1923年には穴銭の5サンチーム白銅貨が導入され、さらに1935年には穴銭の1/2サンチーム銅貨が導入された。

フランス領インドシナ・ピアストル硬貨:戦前発行分
額面
発行開始年表面裏面表面裏面組成
2 サペック
(1887年?1902年)Indo-Chine Francaise(仏領インドシナ); 発行年大法國之安南(大フランス国領安南);
當二(2に値する)
1/2サンチーム
(1935年?1940年)フリジア帽; R F(Republique Francaise(フランス共和国)の頭文字)Indochine Francaise(仏領インドシナ); 額面; 発行年銅


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