(国旗)(国章)
国歌:
La Parisienne(フランス語)
ラ・パリジェンヌ(1830年 - 1848年)
Le Chant des Girondins(フランス語)
ジロンド派の歌(1848年 - 1852年)
Partant pour la Syrie(フランス語)
シリアへ旅立ちながら(1852年 - 1870年)
La Marseillaise(フランス語)
ラ・マルセイエーズ(1870年 - 1962年)
フランス領アルジェリアの地図
公用語フランス語
カビル語
アラビア語
首都アルジェ
元首
1830年 - 1830年シャルル10世
(フランス国王)
1958年 - 1962年シャルル・ド・ゴール
(フランス共和国大統領)
総督
1830年 - 1830年ルイ・オーギュスト・ヴィクトル・ド・ゲースヌ・ド・ブルモン
フランス領アルジェリア(フランスりょうアルジェリア、フランス語: Algerie francaise)は、1848年憲法が発効した1848年11月4日からそれが独立した1962年7月5日までフランスの一部であった。 公式には植民地ではなく、海外県と海外領土の中間的存在とされる。これは19世紀末、1898年8月28日政令と1900年12月19日法律で規定され、県の集まりであるが地域全体は県知事の地位のごときも含めてアルジェリア総督に属するとされ、治安維持の一義的責任は植民地省ではなく本国と同じく内務省が負うとされた。1934年以降は3つの県知事は総督に直属するとされ、司法、教育、ラジオ放送などいくつかの部門は本国の担当省庁に直属した。 さらに1833年4月25日法律第25条の定めでは、本国政府はアルジェリアに適用される諸法令を議会を経ることなく制定・発布・施行されることが出来た[1]。1844年と1846年の政令により土地所有制度を整備。これ以前にはフランス法のみが適用される裁判所が整備された。 ジュール・ド・ポリニャック首相は国内の不満の矛先を地中海対岸の北アフリカへの遠征をもって解消しようと試みた。1830年1月末から扇の一打事件等の現地勢力との断続的な抗争の結果、沿岸地域の支配権を獲得するも、1830年7月にフランス7月革命が発生してフランス復古王政は崩壊した。新政府は王政復古の厄介な遺産となったアルジェリア占領地の取り扱いに苦慮していた。混乱は1834年7月22日に北アフリカフランス領総督府が設立されるまで続いた。 1830年のフランス進入以来、ヨーロッパ各地から無秩序に植民活動が始まった。1839年にはヨーロッパ系住民は25,000人におよんだ。トマ・ロベール・ブジョーは統制の取れた軍事的・集団的な植民活動を望んでいたが総ての試みは失敗した。 フランスの支配が始まるまでは、アラブ人やベルベル人が先祖代々の土地を受け継ぎながら生活し、オスマン帝国が支配者として君臨していた。都市部ではユダヤ人が多数住んでいたが1871年以降、フランス市民権が与えられムスリム達と切り離された。
概要
法的地位
歴史詳細は「アルジェリア侵略」を参照
民族構成