フランス革命期における非キリスト教化運動
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1792年パンテオンドームには十字架の代わりにパリの守護聖女ジュヌヴィエーヴが取り付けられた。

フランス革命期における非キリスト教化運動(The dechristianization of France during the French Revolution)では、1789年フランス革命の勃発から1801年の政教協約(英語版)(コンコルダ)に至るまでの、革命期フランスの各政体がそれぞれに主導した、個別の非キリスト教化政策の諸相とその結果?これは、のちにラジカルな政教分離運動(ライシテ)の基礎をかたちづくった?について説明する。1793年から1794年にかけてのこの運動が目標としたのは、フランスにおいてカトリック教会が保有していた大量の土地、権力、財産の公的な接収であり、キリスト教的なさまざまな習俗および宗教としてのカトリックそのものの解消であった[1][2][3]。その主たる動機がどこにあったのかについては多くの学術的な議論がある[1]

フランス革命は当初、教会の汚職や上級聖職者の富の占有に対する抗議として始まったが、これは多くのキリスト教徒でさえ容認しうるものであった。なぜなら、アンシャン・レジーム期のフランスにおいては、ローマ・カトリックが支配的な立場にあったからである。しかしながら、「恐怖政治」の名称で知られる2年間に起こった反教権主義的事象の数々は、近代ヨーロッパ史のなかでも最も暴力的な例に発展した。新しく発足した革命政府は教会を抑圧し、国教として位置づけられてきたカトリックとそれに依拠した王政を廃止し、さらに3万人の司祭を追放、数百名の聖職者を殺害した[4]。1793年10月、キリスト教の暦(グレゴリオ暦)は革命の記念日を起点とする暦(フランス革命暦)に置き換えられ、そこに「自由の祭典」「理性の祭典」「最高存在の祭典」などのスケジュールが書き込まれた。無神論的な「理性の崇拝」や理神論にもとづく「最高存在の崇拝」などといった道徳的な宗教が新たに出現し、後者に関しては、短期間ではあったが、1794年4月、政府が公式にその遵守を人びとに命じている[5][6][7][8][9]
君主制下の宗教とカトリック教会
1789年以前

18世紀フランスでは、ルイ14世1685年ナントの勅令を取り消す王令(フォンテーヌブローの勅令)を発して以来、国民の大多数がカトリック信者であり、カトリックは国教の地位にあって唯一フランス王国によって保護されてきた宗教であった。少数のフランス系プロテスタント(大部分はユグノーアルザス(当時はドイツの領域)のルター派)もおり、革命初期にはユダヤ人もまだフランスに住んでいた。1787年11月7日、国王ルイ16世は「寛容令」の名でよく知られているヴェルサイユ勅令に署名し、フランスの非カトリック教徒にも信教の自由を保障し、法的ないし民事的地位を公然と行使することのできる権利(市民権)を与え、カトリックに改宗しなくても正式な婚姻を認めることとした[10]。一方、リベルタンの思想家たちは無神論と反教権主義とをフランス社会に広く普及させていた。

アンシャン・レジーム(「旧体制」)では、聖職者の権威等族国家(身分制国家)における「第一身分」としての地位によって制度化されていた。フランス王国最大の土地所有者でもあるカトリック教会は、聖堂修道院学校神学校施療院捨て子養育院、貧民救済など諸事業にかかわって得た莫大な資産を管理していた[11][12]


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